煤けた鏡   作:鳴桜ねむる

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第2話 消えない火傷

 姉と同じ名を持つ少女ヤヨイは、切迫した目線を飲みかけのホットミルクに落としている。

 

「ミミってのは、その子のこと?」

 

 正面に座る狐葉さんは、ヤヨイちゃんに抱えられた、姉の親友である黒猫のぬいぐるみを指した。ヤヨイちゃんは頷いて、細い手で黒猫の頭を撫でた。

 ……姉は名前を付けてはいなかったはずだ。

 プラスチックの目は虚ろだが、煌めいた一瞬の奥、俺はそこに燻るものを感じた。姉と接するうちに意思が宿りでもしたのだろうか。あるいは、姉の魂が居着いた、とか。電灯の反射は俺に薄命な夢を見せた。

 

「わかった。この狐葉様と夜絃くんがバッチリお守りしよう。そんで、何から守れば良い?」

「人から、見つからないように」

「なるほどね。なら、ここを頼って正解だ。ここは隠れるための場所で、殆ど人が来ない。そして私達も頼もしい」

 

 どういう理屈か、この喫茶店にはこういう人ばかりが辿り着く。日向からはじき出された者。何かから逃げる者。ここはそんな人達を、太陽の代わりに温める場所なんだ、と先代である祖父が言っていた。こんな町の隅に建てたのも、それが理由だろう。

 狐葉さんはピースをして、横に立つ俺に「ねー」と首を傾げた。そういえば、こんなに自分に正直で能天気そうな人が、一体どうしてここへ逃げ込むまでになったのだろう。今更の疑問だが、尋ねるのはご法度。飲み込むしかない。

 

「頼もしいかはわかりませんが、しばらくうちに居ると良いですよ。上の階、住居の方には誰も来ませんし、店の方に来るのも僅かです。その僅かなお客様も、言いふらすような方々ではありません」

 

 俺が目線を合わせて言うと、数秒の間、ヤヨイちゃんと見つめ合う形になった。その後、彼女はこの言葉が自分にも向けられていると気づいたらしい。

 

「わたしも、ですか?」

「もちろん。ミミさんも、あなたと離れ離れでは寂しいと思いますよ」

 

 凍った表情の奥が、少し溶けたように見えた。

 

「……ありがとうございます」

「いえいえ。では、今夜は店じまいですね」

 

 二人に背を向け、扉へ向かう。

 彼女が姉と、そして火災と関わりがあるのは明白である。恐らく、あまり良くはない意味で。俺は彼女を、守るべき存在と同時に、目的のための糸口として見ている。差し伸べた手が、純粋な善意からのものではないことに嫌気が差す。

 

「ねぇ、私も泊まって良い?」

 

 静寂を壊すように、狐葉さんが言った。俺は普段通りの顔で振り返る。

 

「俺は構いませんよ。ヤヨイちゃんは大丈夫ですか?」

「はい。お二人が居てくださると心強いです」

「なら良かったです。狐葉さん、今夜はソファで寝てくださいね」

「床で良いよ」

「前それで腰痛めてたでしょう」

 

 掛け看板を返すため、扉を開く。

 暗闇に紛れる気配を感知した目は自然とそちらへ向いていた。暗さには慣れていなかったが、間違い無く捉えた。正面に、細身の男が一人、夜の影に隠れて立っている。

 

 ――響。

 

「夜絃くん?」

「部屋、入っておいてください!」

 

 狐葉さんに鍵を投げ、俺は飛び出した。

 確かに居る。生きている。

 息が上手く吸えない。鼓動が痛い。

 興奮で明るくなる視界に、小さな光が煌めいた。

 俺は一歩後退った彼の腕を掴んだ。響は顔を逸らし、微かに震えている。吸い込んだ息を、音に変えられずに吐き出している。

 ただでさえ不明瞭な視界が、熱を持って歪む。

 

「良かった。生きてたんだな。良かった……」

 

 脱力して崩れそうな脚とは反対に、手には力が篭もった。

 

「夜絃」

「嬉しくて、つい。怪我とか大丈夫なのか?」

「……腕に火傷がある。触られると痛い」

「あっ、ごめん」

 

 俺は懲りずに手を握った。今はこの体温を手放したくない。と言っても、俺の方が温かいのだが。

 響は小さく咳払いをして、一語一語を確認するように言う。

 

「夜絃。弥宵のこと、なんだけど」

 

 心臓が張り詰める。動きかねている響の口を注視する。彼は息を吸った。

 

「助けられなかった」

 

 予想通りの答え。聞く前からわかりきっていたのに、飲み込めない。飲み込みたくない。

 認めたくない。

 

「た、確かに見たのか?」

「……目の前で、瓦礫に押し潰されたよ」

 

 拒絶ごと押し流され、すとんと落ちた。

 溢れそうになった熱を堪えるため、天を仰ぐ。

 そうだ、今夜は曇り空。小さな光など、端から見えてはいなかったのだ。

 響の震えが手を介して伝わる。

 

「悪い、無神経だった」

「気にしないで。君の気持ちは痛い程わかる」

「……ありがとう。寒いし、中で話さないか?」

「うん、お言葉に甘えよう」

 

 俺を呼ぶ、無邪気な声を思い出す。あの時、強引にでも引き留めていたら――素敵な絵画のような幻想は、すぐに煤に塗りつぶされた。

 看板を返してから入ると、狐葉さんとヤヨイちゃんは変わらず席についていた。二人と目が合って、尋ねようとした瞬間だった。

 

「――ミミ」

 

 微かな響の声。二人にまでは届かなかったようだが、俺には確かに聞こえた。

 

「あ、お客さん? って君か。……え、響くん!?」

 

 驚きながらも、それとなくヤヨイちゃんの前に立ち、狐葉さんは安堵のポーズを取った。

 

「生きてたんだ。良かった。……ああ、顔を見ればわかるよ。いつも通りさ」

「……ありがとうございます」

 

 狐葉さんは俺を見て「そうだ」と鍵を手に取った。

 

「マスター。これ、刺さんなかったよ」

「……それ、店の鍵ですね。慌ててました」

 

 改めて部屋の鍵を渡すと、二人は二階へと続く階段を上っていった。その直前、ヤヨイちゃんが響を一瞥したように見えた。

 洗った食器を拭きながら、カウンター越しに響を見る。コーヒーを飲み、息をつく顔は、普段と大して相違無い。けれど、口数が少ない。決して俺と目を合わせようとしない。あからさまに観察していても、気にも留めていない。……これはいつものことかもしれないが。

 先程の呟きを反芻する。生まれかけている濁りを消し去りたい。俺は意を決して口を開いた。

 

「何か知ってるのか?」

 

 響は顔を上げた。相変わらず表情が希薄である。

 

「……何かって?」

「さっき、『ミミ』って言ってたろ」

 

 適切な返答が浮かぶのを待っているのか、やや長い髪の奥、響は数秒の間目線を逸らした。

 

「なんの話? お化けの声でも聞こえたか、マスター?」

 

 干渉は嫌だが、居てほしい。響が俺にマスターを求めるのは、そういう時だ。

 

「ごめん。なんでもないよ。それと、今は無理だ」

「そう。まあ、この方が頼みやすいから良いか」

 

 響は俺に目を向けた。その目は真っ黒で、俺の濁りが全て吞み込まれてしまいそうな程だった。

 

「火事の犯人を突き止める。協力してくれ、夜絃」

 

 真剣に、真摯に言った。

 俺も真っ直ぐに受け止め、手を取りたい。けれど、本当に良いのかと、何かが不安がる。それは僅かな濁りが生み出した矮小な疑念だった。

 俺はそれを無視して頷いた。

 

「ああ、もちろん」

「……ありがとう。さて、もう遅いし今日は帰るよ。コーヒーごちそうさま。美味しかった」

「帰る当てはあるのか?」

「近くに知り合いが住んでるから、置いてもらってる」

 

 その言葉を聞いて、大学時代の噂が脳裏をよぎった。金持ちの男に飼われているとかいう、根も葉も無い噂だ。積極的な方ではないが人柄が良く、恋愛的にも人間的にも人気があった響に嫉妬しての発生だろう。度々金欠だなんだと嘆いているのを知っていた俺などの友人は、端から信じていなかった。けれど、あまりに根強いので不安になっていたある日、突然俺は真実を知ることとなった。

 本人が写真を見せてきたのだ。画面に映る未確認男性――その正体は、親戚の叔父さん。彼の手伝いをして小遣いを稼いでいるとのことだった。俺も誘われたが、単位が危険だったので辞退した。

 だから、今回もきっと友人の家とかだろう。

 

「なら安心だ。お気をつけて」

 

 響は代金を置いて、席を立った。一度も振り返らず、そのまま出ていく。寂しげにベルが鳴り、扉が閉まった。

 洗い物や戸締まりを済ませ、階段を上ろうとすると、下りてくる狐葉さんとぶつかりかけた。

 

「狐葉さん?」

「ごめん、用事ができた。帰るね」

「は、はい、お気をつけて」

 

 鍵を開け、何度も振り返って手を振る走り姿を見送った。もう終電も無いのに、大丈夫なんだろうか。まあ、あの人だし大丈夫だろうな。

 二階の玄関から廊下を進むと、不意に冷たい風が肌を撫でた。出処は居間へ繋がる半開きの扉だ。

 入ると、正面のベランダで一人、ヤヨイちゃんが空を眺めていた。俺の足音に気づいていないのか、それとも無視をしているのか。背中を光に照らされながら、遠いどこかを見つめている。

 ソファでは、ミミがクッションを布団にして寝かされている。クッションはまだ買って日が浅く張り切っているため、のしかかられているようにも見える。気の毒だったので、毛布と替えた。

 部屋の照明を消し、クローゼットから取り出した上着を自分とヤヨイちゃんに着せ、隣に並んだ。

 煙で濁ったかのような空には、輝くものは居ない。それでも、ヤヨイちゃんは懸命に何かを探している。そのひたむきさが羨ましくて、俺は彼女に倣うことにした。

 黒い雲はいくら見送っても尽きない。もしかして、次に見えるのもどうせ雲だと脳が勝手に決めつけて、小さな光を無視しているのではないか。視界は目ではなく脳が見ている世界である。他の感覚も同様。見えているのは所詮、脳の我儘で加工されている映像に過ぎない。我々はそんなものに付き合わず、真の世界を見る努力をするべきなのだ――などと奇天烈な演説を脳細胞に聞かせている間も、空は黒いままだった。

 ……風が騒がしい。いや、他が静かすぎるのだ。俺達は静寂の中、言葉も交わさずただ眺めていた。

 何かを見ようとしなくても良い。目的が無くても、夜空を眺めても良い。そういうことだろうか。

 すると、ヤヨイちゃんが不意に口を開いた。

 

「夜絃さん」

「はい、なんでしょう」

「人が人を殺すのは、どうしてだと思いますか?」

 

 空っ風のような、けれど切実な声。投げかけられたのは、幼い疑問ではなく、高尚な問答でもないようだった。

 

「自分の気持ちを満たすため、ですかね。相手を恨んでいたからとか、単に楽しむためとか……動機がなんであれ、結局は自分のために変わりないと思います」

 

 復讐だって、自分の大切なものを傷つけられて行うものだ。自殺も、死にたいから自分を殺す。全て根源は自分の欲望だ。完全に誰かのための殺人なんてのは存在し得ない――というのが俺の持論である。

 ヤヨイちゃんは空を見たまま、少し置いて言う。

 

「命を奪うくらい、強い気持ちなんですね。抑えられるもの、なんでしょうか」

「何も刺激が無い状態なら、恐らく。小さなきっかけで簡単に決壊するものだから、殺人事件が絶えないんでしょうね」

「……その、もしもの話です。わたしが、抑えられなくなってしまったら、その時は……」

「その時は、俺がヤヨイちゃんを止めます。少し手荒になったとしても、絶対に守ります」

 

 言ってから、心臓に重さがのしかかった。言葉というのは真剣である程、音にするのに体力が要るものだ。

 暗さに慣れた視界は、ヤヨイちゃんの目に溜まる涙を捉えた。彼女は一滴も零さなかった。

 

「ありがとうございます。……それと、『ちゃん』はやめてください。なんか、気持ち悪い」

 

 少女の口から発せられた「気持ち悪い」は、杭で打ち込まれた釘のように鋭く刺さり、鈍く何かを砕いた。

 

「わ、わかりました。じゃあ、ヤヨイさん」

「ヤヨイ」

「……ヤヨイ」

「はい。この方が、落ち着きます」

 

 そう言って眉尻を下げて微笑んだヤヨイの顔に、記憶の姉さんが重なる。顔立ちは似ていないのに、感じるものは近しかった。もの寂しさと共に、心が柔らかくなっていく。不思議な柔軟剤は脳にまで届き、すぐに眠気をもたらした。

 

「……眠くなってきました。俺は戻りますね」

「わたしもそろそろ――あ」

 

 振り返ろうとしたヤヨイの顔が曇り空に戻される。

 

「見えました」

 

 ヤヨイは細い指で一点を指した。

 

「あそこです。桃色に光ってます」

 

 俺にはどれだけ目を凝らしても見えない。視力の良さには自信があるのだが。やはり脳が諦めているのだろうか。

 

「あ……消えちゃいました」

 

 ぽつりと零すと、ヤヨイは室内に戻った。

 電気をつけると、ソファから転げ落ちたミミが目に入った。

 ……。ぬいぐるみにも寝相とかあるんだな。

 

 風呂などは、あの短時間にもかかわらず狐葉さんが済ませてくれていたようで、ヤヨイの眠る準備はできていた。

 俺は急いで支度を済ませ、ヤヨイをベッドに寝かせた。

 

「では、俺はソファで寝てるので、何かあったらすぐ呼んでくださいね」

 

 布団から耳だけ覗かせるミミの隣、ヤヨイは小さく頷いた。眠いのか、一層元気が無い。

 

「じゃあ、おやすみなさい」

「――行かないで、ください」

 

 ヤヨイはベッドから降りて駆け寄ってきた。

 

「やっぱり一緒に居てほしいです。少し、怖くて……駄目ですか?」

 

 きっと「しっかりした大人」なら、善意を以て突っぱねるのだろう。けれど、俺はそれができなかった。俺も一人が怖かった。姉の面影を持つ彼女と共に居たかった。

 そうして、俺達はベッドの端と端で眠ることにした。

 ベッドの反対側から伸ばされた手を取る。氷のように冷たい。俺の体温では足りないのだと思い知る程に、冷えきっていた。

 不意に手が握られる。優しく握り返すと、穏やかに力が緩められる。それで、俺も安心する。

 俺は割り切って強くあれる大人ではなく、素直に縋れる子供でもない。揺らいだ濁りに足を取られ、俺はモラトリアムに滑り落ちた。そして迷いの渦に呑み込まれ、眠りに沈んだ。深く、温かな眠りだった。

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