姉と同じ名を持つ少女ヤヨイは、切迫した目線を飲みかけのホットミルクに落としている。
「ミミってのは、その子のこと?」
正面に座る狐葉さんは、ヤヨイちゃんに抱えられた、姉の親友である黒猫のぬいぐるみを指した。ヤヨイちゃんは頷いて、細い手で黒猫の頭を撫でた。
……姉は名前を付けてはいなかったはずだ。
プラスチックの目は虚ろだが、煌めいた一瞬の奥、俺はそこに燻るものを感じた。姉と接するうちに意思が宿りでもしたのだろうか。あるいは、姉の魂が居着いた、とか。電灯の反射は俺に薄命な夢を見せた。
「わかった。この狐葉様と夜絃くんがバッチリお守りしよう。そんで、何から守れば良い?」
「人から、見つからないように」
「なるほどね。なら、ここを頼って正解だ。ここは隠れるための場所で、殆ど人が来ない。そして私達も頼もしい」
どういう理屈か、この喫茶店にはこういう人ばかりが辿り着く。日向からはじき出された者。何かから逃げる者。ここはそんな人達を、太陽の代わりに温める場所なんだ、と先代である祖父が言っていた。こんな町の隅に建てたのも、それが理由だろう。
狐葉さんはピースをして、横に立つ俺に「ねー」と首を傾げた。そういえば、こんなに自分に正直で能天気そうな人が、一体どうしてここへ逃げ込むまでになったのだろう。今更の疑問だが、尋ねるのはご法度。飲み込むしかない。
「頼もしいかはわかりませんが、しばらくうちに居ると良いですよ。上の階、住居の方には誰も来ませんし、店の方に来るのも僅かです。その僅かなお客様も、言いふらすような方々ではありません」
俺が目線を合わせて言うと、数秒の間、ヤヨイちゃんと見つめ合う形になった。その後、彼女はこの言葉が自分にも向けられていると気づいたらしい。
「わたしも、ですか?」
「もちろん。ミミさんも、あなたと離れ離れでは寂しいと思いますよ」
凍った表情の奥が、少し溶けたように見えた。
「……ありがとうございます」
「いえいえ。では、今夜は店じまいですね」
二人に背を向け、扉へ向かう。
彼女が姉と、そして火災と関わりがあるのは明白である。恐らく、あまり良くはない意味で。俺は彼女を、守るべき存在と同時に、目的のための糸口として見ている。差し伸べた手が、純粋な善意からのものではないことに嫌気が差す。
「ねぇ、私も泊まって良い?」
静寂を壊すように、狐葉さんが言った。俺は普段通りの顔で振り返る。
「俺は構いませんよ。ヤヨイちゃんは大丈夫ですか?」
「はい。お二人が居てくださると心強いです」
「なら良かったです。狐葉さん、今夜はソファで寝てくださいね」
「床で良いよ」
「前それで腰痛めてたでしょう」
掛け看板を返すため、扉を開く。
暗闇に紛れる気配を感知した目は自然とそちらへ向いていた。暗さには慣れていなかったが、間違い無く捉えた。正面に、細身の男が一人、夜の影に隠れて立っている。
――響。
「夜絃くん?」
「部屋、入っておいてください!」
狐葉さんに鍵を投げ、俺は飛び出した。
確かに居る。生きている。
息が上手く吸えない。鼓動が痛い。
興奮で明るくなる視界に、小さな光が煌めいた。
俺は一歩後退った彼の腕を掴んだ。響は顔を逸らし、微かに震えている。吸い込んだ息を、音に変えられずに吐き出している。
ただでさえ不明瞭な視界が、熱を持って歪む。
「良かった。生きてたんだな。良かった……」
脱力して崩れそうな脚とは反対に、手には力が篭もった。
「夜絃」
「嬉しくて、つい。怪我とか大丈夫なのか?」
「……腕に火傷がある。触られると痛い」
「あっ、ごめん」
俺は懲りずに手を握った。今はこの体温を手放したくない。と言っても、俺の方が温かいのだが。
響は小さく咳払いをして、一語一語を確認するように言う。
「夜絃。弥宵のこと、なんだけど」
心臓が張り詰める。動きかねている響の口を注視する。彼は息を吸った。
「助けられなかった」
予想通りの答え。聞く前からわかりきっていたのに、飲み込めない。飲み込みたくない。
認めたくない。
「た、確かに見たのか?」
「……目の前で、瓦礫に押し潰されたよ」
拒絶ごと押し流され、すとんと落ちた。
溢れそうになった熱を堪えるため、天を仰ぐ。
そうだ、今夜は曇り空。小さな光など、端から見えてはいなかったのだ。
響の震えが手を介して伝わる。
「悪い、無神経だった」
「気にしないで。君の気持ちは痛い程わかる」
「……ありがとう。寒いし、中で話さないか?」
「うん、お言葉に甘えよう」
俺を呼ぶ、無邪気な声を思い出す。あの時、強引にでも引き留めていたら――素敵な絵画のような幻想は、すぐに煤に塗りつぶされた。
看板を返してから入ると、狐葉さんとヤヨイちゃんは変わらず席についていた。二人と目が合って、尋ねようとした瞬間だった。
「――ミミ」
微かな響の声。二人にまでは届かなかったようだが、俺には確かに聞こえた。
「あ、お客さん? って君か。……え、響くん!?」
驚きながらも、それとなくヤヨイちゃんの前に立ち、狐葉さんは安堵のポーズを取った。
「生きてたんだ。良かった。……ああ、顔を見ればわかるよ。いつも通りさ」
「……ありがとうございます」
狐葉さんは俺を見て「そうだ」と鍵を手に取った。
「マスター。これ、刺さんなかったよ」
「……それ、店の鍵ですね。慌ててました」
改めて部屋の鍵を渡すと、二人は二階へと続く階段を上っていった。その直前、ヤヨイちゃんが響を一瞥したように見えた。
洗った食器を拭きながら、カウンター越しに響を見る。コーヒーを飲み、息をつく顔は、普段と大して相違無い。けれど、口数が少ない。決して俺と目を合わせようとしない。あからさまに観察していても、気にも留めていない。……これはいつものことかもしれないが。
先程の呟きを反芻する。生まれかけている濁りを消し去りたい。俺は意を決して口を開いた。
「何か知ってるのか?」
響は顔を上げた。相変わらず表情が希薄である。
「……何かって?」
「さっき、『ミミ』って言ってたろ」
適切な返答が浮かぶのを待っているのか、やや長い髪の奥、響は数秒の間目線を逸らした。
「なんの話? お化けの声でも聞こえたか、マスター?」
干渉は嫌だが、居てほしい。響が俺にマスターを求めるのは、そういう時だ。
「ごめん。なんでもないよ。それと、今は無理だ」
「そう。まあ、この方が頼みやすいから良いか」
響は俺に目を向けた。その目は真っ黒で、俺の濁りが全て吞み込まれてしまいそうな程だった。
「火事の犯人を突き止める。協力してくれ、夜絃」
真剣に、真摯に言った。
俺も真っ直ぐに受け止め、手を取りたい。けれど、本当に良いのかと、何かが不安がる。それは僅かな濁りが生み出した矮小な疑念だった。
俺はそれを無視して頷いた。
「ああ、もちろん」
「……ありがとう。さて、もう遅いし今日は帰るよ。コーヒーごちそうさま。美味しかった」
「帰る当てはあるのか?」
「近くに知り合いが住んでるから、置いてもらってる」
その言葉を聞いて、大学時代の噂が脳裏をよぎった。金持ちの男に飼われているとかいう、根も葉も無い噂だ。積極的な方ではないが人柄が良く、恋愛的にも人間的にも人気があった響に嫉妬しての発生だろう。度々金欠だなんだと嘆いているのを知っていた俺などの友人は、端から信じていなかった。けれど、あまりに根強いので不安になっていたある日、突然俺は真実を知ることとなった。
本人が写真を見せてきたのだ。画面に映る未確認男性――その正体は、親戚の叔父さん。彼の手伝いをして小遣いを稼いでいるとのことだった。俺も誘われたが、単位が危険だったので辞退した。
だから、今回もきっと友人の家とかだろう。
「なら安心だ。お気をつけて」
響は代金を置いて、席を立った。一度も振り返らず、そのまま出ていく。寂しげにベルが鳴り、扉が閉まった。
洗い物や戸締まりを済ませ、階段を上ろうとすると、下りてくる狐葉さんとぶつかりかけた。
「狐葉さん?」
「ごめん、用事ができた。帰るね」
「は、はい、お気をつけて」
鍵を開け、何度も振り返って手を振る走り姿を見送った。もう終電も無いのに、大丈夫なんだろうか。まあ、あの人だし大丈夫だろうな。
二階の玄関から廊下を進むと、不意に冷たい風が肌を撫でた。出処は居間へ繋がる半開きの扉だ。
入ると、正面のベランダで一人、ヤヨイちゃんが空を眺めていた。俺の足音に気づいていないのか、それとも無視をしているのか。背中を光に照らされながら、遠いどこかを見つめている。
ソファでは、ミミがクッションを布団にして寝かされている。クッションはまだ買って日が浅く張り切っているため、のしかかられているようにも見える。気の毒だったので、毛布と替えた。
部屋の照明を消し、クローゼットから取り出した上着を自分とヤヨイちゃんに着せ、隣に並んだ。
煙で濁ったかのような空には、輝くものは居ない。それでも、ヤヨイちゃんは懸命に何かを探している。そのひたむきさが羨ましくて、俺は彼女に倣うことにした。
黒い雲はいくら見送っても尽きない。もしかして、次に見えるのもどうせ雲だと脳が勝手に決めつけて、小さな光を無視しているのではないか。視界は目ではなく脳が見ている世界である。他の感覚も同様。見えているのは所詮、脳の我儘で加工されている映像に過ぎない。我々はそんなものに付き合わず、真の世界を見る努力をするべきなのだ――などと奇天烈な演説を脳細胞に聞かせている間も、空は黒いままだった。
……風が騒がしい。いや、他が静かすぎるのだ。俺達は静寂の中、言葉も交わさずただ眺めていた。
何かを見ようとしなくても良い。目的が無くても、夜空を眺めても良い。そういうことだろうか。
すると、ヤヨイちゃんが不意に口を開いた。
「夜絃さん」
「はい、なんでしょう」
「人が人を殺すのは、どうしてだと思いますか?」
空っ風のような、けれど切実な声。投げかけられたのは、幼い疑問ではなく、高尚な問答でもないようだった。
「自分の気持ちを満たすため、ですかね。相手を恨んでいたからとか、単に楽しむためとか……動機がなんであれ、結局は自分のために変わりないと思います」
復讐だって、自分の大切なものを傷つけられて行うものだ。自殺も、死にたいから自分を殺す。全て根源は自分の欲望だ。完全に誰かのための殺人なんてのは存在し得ない――というのが俺の持論である。
ヤヨイちゃんは空を見たまま、少し置いて言う。
「命を奪うくらい、強い気持ちなんですね。抑えられるもの、なんでしょうか」
「何も刺激が無い状態なら、恐らく。小さなきっかけで簡単に決壊するものだから、殺人事件が絶えないんでしょうね」
「……その、もしもの話です。わたしが、抑えられなくなってしまったら、その時は……」
「その時は、俺がヤヨイちゃんを止めます。少し手荒になったとしても、絶対に守ります」
言ってから、心臓に重さがのしかかった。言葉というのは真剣である程、音にするのに体力が要るものだ。
暗さに慣れた視界は、ヤヨイちゃんの目に溜まる涙を捉えた。彼女は一滴も零さなかった。
「ありがとうございます。……それと、『ちゃん』はやめてください。なんか、気持ち悪い」
少女の口から発せられた「気持ち悪い」は、杭で打ち込まれた釘のように鋭く刺さり、鈍く何かを砕いた。
「わ、わかりました。じゃあ、ヤヨイさん」
「ヤヨイ」
「……ヤヨイ」
「はい。この方が、落ち着きます」
そう言って眉尻を下げて微笑んだヤヨイの顔に、記憶の姉さんが重なる。顔立ちは似ていないのに、感じるものは近しかった。もの寂しさと共に、心が柔らかくなっていく。不思議な柔軟剤は脳にまで届き、すぐに眠気をもたらした。
「……眠くなってきました。俺は戻りますね」
「わたしもそろそろ――あ」
振り返ろうとしたヤヨイの顔が曇り空に戻される。
「見えました」
ヤヨイは細い指で一点を指した。
「あそこです。桃色に光ってます」
俺にはどれだけ目を凝らしても見えない。視力の良さには自信があるのだが。やはり脳が諦めているのだろうか。
「あ……消えちゃいました」
ぽつりと零すと、ヤヨイは室内に戻った。
電気をつけると、ソファから転げ落ちたミミが目に入った。
……。ぬいぐるみにも寝相とかあるんだな。
風呂などは、あの短時間にもかかわらず狐葉さんが済ませてくれていたようで、ヤヨイの眠る準備はできていた。
俺は急いで支度を済ませ、ヤヨイをベッドに寝かせた。
「では、俺はソファで寝てるので、何かあったらすぐ呼んでくださいね」
布団から耳だけ覗かせるミミの隣、ヤヨイは小さく頷いた。眠いのか、一層元気が無い。
「じゃあ、おやすみなさい」
「――行かないで、ください」
ヤヨイはベッドから降りて駆け寄ってきた。
「やっぱり一緒に居てほしいです。少し、怖くて……駄目ですか?」
きっと「しっかりした大人」なら、善意を以て突っぱねるのだろう。けれど、俺はそれができなかった。俺も一人が怖かった。姉の面影を持つ彼女と共に居たかった。
そうして、俺達はベッドの端と端で眠ることにした。
ベッドの反対側から伸ばされた手を取る。氷のように冷たい。俺の体温では足りないのだと思い知る程に、冷えきっていた。
不意に手が握られる。優しく握り返すと、穏やかに力が緩められる。それで、俺も安心する。
俺は割り切って強くあれる大人ではなく、素直に縋れる子供でもない。揺らいだ濁りに足を取られ、俺はモラトリアムに滑り落ちた。そして迷いの渦に呑み込まれ、眠りに沈んだ。深く、温かな眠りだった。