煤けた鏡   作:鳴桜ねむる

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第3話 隠匿の顔

 それは福路弥宵(ねえさん)と二人、何気無い会話を交わしている場面から始まった。

 俺は温かな団欒に油断をしていたらしい。

 気づいたのは、姉さんの顔から表情が消えてからだった。

 ……あ、間違えた。

 立ち上がった姉さんの手が、俺の頭を冷たい床に押しつける。

 間違えた、間違えた間違えた間違えたなんで、間違えた間違えた怖い間違えた間違えた――

 

「ごめんなさい、姉さん、やめて……」

 

 喉から絞り出された言葉は、無意味に消えた。

 ……俺が我慢すればいいだけ。すぐに元に戻ってくれるはずだから。

 それに、一番苦しいのは姉さんだ。抵抗なんかしたら、余計に苦しむだろう。俺の怪我なんて、いつかは治るから。

 下ろされる瞼の隙間、振り上げられた拳が映った。

 

 ――ぺちん。余韻も無い微弱な痛みによって、俺の意識は現実に帰ってきた。

 真っ先に感じたのは、充満した焦げ臭さだった。

 目を開けば、ミミを抱えたヤヨイが切羽詰まった表情で俺の肩を掴んでいた。

 部屋の外からは、風が暴れるような音。正体が風でないことは、すぐにわかった。

 熱い悪夢と重なる。あれは偽物だけど、これは本物。目を開けただけじゃ助からない。

 俺は起き上がって、ヤヨイの手を取った。

 

「しっかり掴まっててください」

 

 ベランダに出て、柵に上る。甲高い風が、深夜で過敏な神経を煽る。

 そこまで高くないし、植え込みに落ちれば大丈夫。

 でも、お構い無しに心臓は鳴り続ける。

 例えば、物語の主人公なら、迷い無く飛べるのだろう。だけど生憎、俺は現実の一般人(モブ)。恐怖を打ち消す勇気など持ち合わせていないし、深呼吸一つで覚悟は決まらない。回想だって、ただのトラウマ想起。震えで滑り落ちないようにするのが精一杯だ。

 窓の向こうで、炎が扉を破って部屋になだれ込んだ。

 生存の可能性を焼き尽くす、圧倒的な熱と光。姉さんを、数多の人々を消したモノが、俺の退路を食っていく。

 決断が迫る程に、動けなくなる。

 すると、縋るように、更に強く手が握られる。

 その冷たさに触れて、思考が漂白されていく。勇気とか恐怖とか、何をつまらないこと。

 俺はヤヨイを抱きかかえた。

 とにかく今は、死にませんように!

 風に包まれ、炎が遠くなっていく。

 ――多分、死んでいた。枝葉の中で生き返った。蘇生直後でぼんやりする頭で、ベランダに盛る炎を眺めていた。

 ヤヨイが胸元で叫ぶ。

 

「夜絃さん!」

「あー、はい、生きてます。怪我とか、どこか痛いとかありませんか?」

「は、はい、おかげさまで。……あ、すみません。重いですよね」

 

 むしろ軽すぎて心配になるくらいだ。

 無事に逃げられてよかった。

 見たところ、喫茶店の中で発火したらしい。ガスの栓は、注意深く確認したはずだが。

 申し訳無さそうに地面に降りたヤヨイの背後で、炎が輪郭を照らす。

 黒いマントで正体を隠した人間が立っている。

 反応する間も無く、ヤヨイはその闇の内へ引き込まれた。

 俺が起き上がった瞬間、そいつはヤヨイを抱えて大きく跳躍し、姿を消した。

 勢い余って倒れかけた身体を、咄嗟に踏み出した足で留める。警告のように、足の裏に小石が食い込んだ。

 この程度の痛み、すぐに消える。

 二歩目の直前、隕石でも衝突したかのような重い衝撃に背中を殴られた。

 地に薙ぎ倒された俺を、硬い靴が踏みつけた。

 

「ごめんなさいね」

 

 女は無慈悲に言った。

 

「生きていてよかった。もちろん、本心だよ?」

 

 知っている声。聞き馴染んだ声。

 きっと、美麗な悪役面をしているのだろう。冴えた月に照らされて、澄んだ黒スーツに身を包んで、黒い狐面の下で口角を上げる。そんな幻影(すがた)がありありと浮かぶ。よく似合っています、と笑いたくなる。

 でも、内側までは認められない。

 

「違う、なんで――」

 

 動こうとした瞬間、ぐぐ、と激痛が肺を塞いだ。

 

「残念。疑う余地無く私だよ。時間稼ぎありがとね、夜絃くん。おかげであの子を捕まえられた。知ってる? この炎、あの子が放ったものなんだよ」

 

 まるで、いつもの冗談みたいに言った。比喩でなく、冗談だ。冗談に違いない。彼女らしくない、悪趣味な嘘だ。

 

「……笑えませんよ」

「あの子を信じてるんだね。でもさあ、会って数時間の身元不明の怪しい子供、どうして信じられるわけ?」

「疑わしい点が無いからですよ。たとえ何か後ろ暗い素性があったとしても、ウチを燃やすことはあり得ません。正直、あなたのほうが怪しいですよ」

「んー……君はそうだよね。ほんと、お祖父(じい)さんそっくり。随分世話になったし、特別に教えてあげよう。あの子は怪物だ。いや、神様か。アレは人間(わたしたち)に災いをもたらす駆除対象。見たでしょ? 町が丸々消し炭になった大災害。そんなモノを、君は信じると?」

 

 何一つ、理解できない。

 確かに、ヤヨイが火災と無関係ではないとは感じている。だからって、あの子が犯人であるはずが無い。むしろ、被害者側だろう。

 そもそも、怪物だとか神様だとか、この人は唐突に何を言っているのか。

 だというのに、狐葉さんに言われると、否定しきれない。裏切り者の「もしも」が浮かぶ。その僅かな可能性が正解なら、助ける必要なんて無いのではないか。

 …………。

 遠くから響いてきたサイレンが静寂を破る。サイレンは炎の付近で停止した。そして、消防隊員達が現れ、淡々と消火活動を開始する。

 俺は彼らに助けを叫んだ。けれど、彼らはこちらを向きもしない。聞こえていないのか、あるいは。

 狐葉さんが、「しーっ」と息を吐いた。蛇の威嚇に似た微かな息は、まるで耳元で囁かれたかのように脳の奥まで貫いた。

 

「取って食おうってわけじゃないよ、私は人間だもの。でも、君には処置を施させてもらうよ」

「処置、って」

「一般人に戻るだけさ。大丈夫、優しくしてあげる」

 

 ちっとも優しくない声で言うと、狐葉さんは俺に腰を下ろした。

 首に手が近づく気配がする。けれど、腕にも脚にも力が入らない。

 昔日の痛みを幻視して息が上がる。暗くなっていく視界でも、はっきりと見えた。

 ――それなのに、嫌いになれなかったのはどうして?

 泣き声を漏らす扉の前に座る少年。ドアノブを回せなかった青年。

 そんなの、ずっと考えてきた。でも、ずっとわからない。

 もう関係無い。どうだっていい。

 瞬きから覚め、目線を遠くへやった。

 植え込みの陰に、黒猫のぬいぐるみが転がっている。ミミだ。攫われた時に落としたのだろうか。

 プラスチックの黒い目が、未だ消えない炎を反射している。真っ黒い身体の中で、その二点だけがきらきらと輝いている。炎を受け入れまいと、その目だけが、強く、強く。

 ――ああ、今更。

 そうだ、俺は守りたいのだ。

 意地と勘で動いた手は、すんでのところで腕を掴んだ。

 

「俺は――あの子と、約束をしました。絶対に守ると言いました。約束した以上は、責任を果たすほかありません。彼女が犯人だとしても。これが俺の感情ですよ、狐葉さん」

「……言うようになったね。でも、それはそれだ」

 

 手を振りほどかれた。首を鷲掴みにされた直後、鋭い痛みが刺す。ジクジク、血流に乗った痛みは、甘く豹変した。泡のように弾けて、肉を、骨を侵していく。

 

「我が儘じゃ、ゲームオーバーは覆らないんだよ」

 

 身体は融けてしまったのだろうか。もうどこにも見つからない。

 胸焼けしそうな甘さが脳髄にふれた。のうが、触れる。世界がぐるぐる、くるくる、ぐるり、くるっていく。

 おれはまだ消えちゃだめなのに。

 でも、すこし、ねむるだけなら。

 さいごに、だれかのこえがした。

 

 酷い夢を見た。

 跳ね起きると同時に、重い頭痛が脈動する。

 

「駄目、まだ寝てないと」

 

 そう言って布団をかけ直したのは、若い男の手。

 深呼吸を繰り返すうち、重苦しい脈動が収まり、視界が明瞭になる。

 白っぽい色で統一された、アパートか何かの一室。ベッドの傍らには、心配を露わにした響が座っている。その奥には、ソファで本を読む大男がいた。

 彼は、感覚器官以外がすべて包帯で覆い隠されている。ページをめくる手にも、包帯が巻かれている。まるでハロウィンの仮装。体型的にはミイラそのものだ。

 すると、目線を遮るように響が俺の顔を覗く。

 

「夜絃、喋れそう?」

「ああ。……何があった?」

「ユーサイに――いや、狐葉さんに襲われてた君を保護した。大丈夫、居場所はバレてない。そして、ここは僕の居候先。向こうに座ってる人が――あれ?」

葛器魅景(くずきみかげ)。ここの者だ」

 

 包帯男は、いつの間にか響の横に並んでいた。響よりも頭一つ分は大きく、俺は思わず息を呑んだ。

 彼は目を細め、やはり包帯で覆われた掌をひらひらと振る。

 

「よろしく、福路夜絃くん。君のことは響から聞いているよ」

 

 渋みと重みのある声が年齢を感じさせる。それが一層、彼の得体の知れなさを増幅させている。

 喫茶店にも色々なお客様がいらっしゃった。今更、容姿で驚くようなことは無いと思っていた。だが、狐のお面よりも衝撃的な姿に、俺の思考は釘付けだった。

 

「気になるかね? 取ってみせようか?」

「怖がってるんですよ。座ってください、デカいんですから」

「む、そうだな。そうさせてもらおうか」

 

 響に譲られ、葛器と名乗った男は椅子に腰かけた。それでも消えない威圧感は、包帯と天性のものだろう。

 

「ジロジロ見てしまってすみません。こちらこそ、よろしくお願いします」

「うむ。これは先の火災にやられてしまってね。ただの大火傷だ。気にすることじゃない。さて、恩を売るわけではないが、君に頼みがある。我々に手を貸してくれないかね」

「……犯人探しですか? それなら、響とも約束しましたし」

 

 響を見ると、彼はばつが悪そうに視線を返した。

 

「ちょっと違うんだ」

「どういうことだ?」

「私が説明しよう。説明を聞いて、賛同できないというなら、構わない。君を安全な場所に送ろう」

 

 じっと、俺の目を見つめながら、葛器さんは話し始める。

 

「君の喫茶店の常連に、狐葉という女がいるな」

「……はい」

「彼女はとある組織に所属している。組織の名は『ユーサイ』。異能者を捕らえては、兵器として利用している連中だ。喫茶店にいたという少女も、奴らに攫われたのだろう」

「あの、異能者って?」

「ああ、そうか。君は知らないか。……響」

 

 細く白い先端に、ちっぽけな火が点いた。蝋燭ではなく、響の指先に。

 そこには、タネも仕掛けも見当たらない。催眠にかかったかのように見入っていると、火は細い煙となって消えた。

 

「大抵の異能者はもっと派手だけど、僕はこの程度。手品か何かに見えるよな。こんなのじゃ、納得できなくてもしょうがない。ただ、あの人達はそんな馬鹿げた理由であの子を攫った、そう解釈してもらえればいい」

 

 響はやや俯いて、前髪の奥から目線だけを寄越す。

 それは嘲りを含んだ目。どうせ信じてもらえないと、諦めきった色。

 それを向けられるのは、二度目だ。一度目は、いつだったか。けれど、俺はこの目に弱いのだった。

 

「無理にでも納得するさ。あの子も火を扱えるみたいだし」

「――え」

「知っていたのかね?」

「狐葉さんに言われたので。あの人が言うには、穂麓町も喫茶店も彼女の仕業とか。俺には到底、信じられませんけど」

「ふむ、相当な悪党のようで安心した。まさか、無辜の少女一人に罪を擦りつけるとは。その少女が炎を操れたとて、そこまでの動機など持つまい。それとも、虐殺を愉しむ非道な少女だったのか?」

「いいえ。そんなこと、あの子にはできません」

 

 強い語気で否定した俺を、葛器さんは興味深そうに覗きこむ。

 

「そうか。ちなみに、火災の調査だが。規制をかけたのは奴らだよ」

 

 黒い瞳が、俺の反応を、奥底で揺れ動く心を見据えていた。

 

「……逃がす気、ありませんよね?」

「ははは。まあ、無理強いはしない。君が頷いてくれるのなら、我々も全身全霊で手を貸そう」

「本当に無理しないで、夜絃。軽々しく頼んだ僕も悪かった。まだ、そんなに時間経ってないだろ」

 

 それは、お前だって――

 元より、逃げる気なんて無かったが。

 これではもう、迷うことも許されない。

 

「お願いします。俺は、あの子を助け出さなければいけない」

 

 俺は起き上がって、頭を下げた。顔を見られないように、深く。

 肩に手が置かれた。

 

「よく言った、少年。必ず、彼女を奪還しよう」

「少年って年じゃありません」

「なに、私からすればまだまだ少年だよ。ところで、少女の名を訊いてもよいか?」

「――ミミです。名字や漢字は知りません」

 

 葛器さんは納得したように頷くと、早速準備に取りかかった。

 俺は、椅子を片付けようとする響に目をやった。いつもの響と目が合った。

 

「どうかした?」

「お前も、無理するなよ」

「ありがとう。平気だよ」

 

 いつもの笑顔を向けると、自分の服を貸すと言って、響は離れていった。

 ……俺は、葛器さんを信用できていない。輪郭の明瞭でないモノが、思考に澱んでいるのだ。言ってしまえば、勘である。多分、未だ狐葉さんを信じているというのもある。

 とはいえ、彼と手を組まなければ、俺の手がヤヨイに届くことは無いだろう。本心が悟られないように、上手いことやるしかない。

 俺はベッドを降りた。足の裏が、まだヒリヒリ熱を持っている。

 どんなお客様が来店された時より、胃がキリキリ軋んでいた。

 

 背格好が似ていたおかげで、響の服は大体着られた。けれど、上着は一着しか無かったので、葛器さんのコートを借りることになった。

 

「……少し、大きいかな」

「大丈夫ですよ、十分動けますので」

「似合ってるけど、何か足りない。……貫禄?」

「しょうがないだろ、俺はまだまだ若造だ」

 

 喫茶店跡に向かうため、俺達は葛器さんの運転する車に乗りこんだ。

 灰色がかった水色が、目を覚まし始める人々を見守っている。いつの間にやら朝になっていたらしい。

 静寂が薄れゆく住宅街をすり抜けていく車は、まるで太陽から逃げているようだった。

 炎の影も無い景色を眺めていると、ふと、脳裏に反射した炎がちらついた。

 

「あの……俺が倒れていた近くに、何か落ちてませんでしたか?」

「見ていないな」

「僕も見てない。落とし物?」

「……そんなところ。大したものじゃないし、気にしないでください」

 

 俺は再び、視線を外に戻した。

 ミミと名付けられた黒猫。あんなところに落ちていたのでは、消火完了の前に引火して燃え尽きているだろう。だが、俺にはそう思えなかった。あれだけ抗っていたのだ、炎に負けるはずが無い。

 俺は身体の陰で、拳を握りしめた。

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