それは
俺は温かな団欒に油断をしていたらしい。
気づいたのは、姉さんの顔から表情が消えてからだった。
……あ、間違えた。
立ち上がった姉さんの手が、俺の頭を冷たい床に押しつける。
間違えた、間違えた間違えた間違えたなんで、間違えた間違えた怖い間違えた間違えた――
「ごめんなさい、姉さん、やめて……」
喉から絞り出された言葉は、無意味に消えた。
……俺が我慢すればいいだけ。すぐに元に戻ってくれるはずだから。
それに、一番苦しいのは姉さんだ。抵抗なんかしたら、余計に苦しむだろう。俺の怪我なんて、いつかは治るから。
下ろされる瞼の隙間、振り上げられた拳が映った。
――ぺちん。余韻も無い微弱な痛みによって、俺の意識は現実に帰ってきた。
真っ先に感じたのは、充満した焦げ臭さだった。
目を開けば、ミミを抱えたヤヨイが切羽詰まった表情で俺の肩を掴んでいた。
部屋の外からは、風が暴れるような音。正体が風でないことは、すぐにわかった。
熱い悪夢と重なる。あれは偽物だけど、これは本物。目を開けただけじゃ助からない。
俺は起き上がって、ヤヨイの手を取った。
「しっかり掴まっててください」
ベランダに出て、柵に上る。甲高い風が、深夜で過敏な神経を煽る。
そこまで高くないし、植え込みに落ちれば大丈夫。
でも、お構い無しに心臓は鳴り続ける。
例えば、物語の主人公なら、迷い無く飛べるのだろう。だけど生憎、俺は現実の
窓の向こうで、炎が扉を破って部屋になだれ込んだ。
生存の可能性を焼き尽くす、圧倒的な熱と光。姉さんを、数多の人々を消したモノが、俺の退路を食っていく。
決断が迫る程に、動けなくなる。
すると、縋るように、更に強く手が握られる。
その冷たさに触れて、思考が漂白されていく。勇気とか恐怖とか、何をつまらないこと。
俺はヤヨイを抱きかかえた。
とにかく今は、死にませんように!
風に包まれ、炎が遠くなっていく。
――多分、死んでいた。枝葉の中で生き返った。蘇生直後でぼんやりする頭で、ベランダに盛る炎を眺めていた。
ヤヨイが胸元で叫ぶ。
「夜絃さん!」
「あー、はい、生きてます。怪我とか、どこか痛いとかありませんか?」
「は、はい、おかげさまで。……あ、すみません。重いですよね」
むしろ軽すぎて心配になるくらいだ。
無事に逃げられてよかった。
見たところ、喫茶店の中で発火したらしい。ガスの栓は、注意深く確認したはずだが。
申し訳無さそうに地面に降りたヤヨイの背後で、炎が輪郭を照らす。
黒いマントで正体を隠した人間が立っている。
反応する間も無く、ヤヨイはその闇の内へ引き込まれた。
俺が起き上がった瞬間、そいつはヤヨイを抱えて大きく跳躍し、姿を消した。
勢い余って倒れかけた身体を、咄嗟に踏み出した足で留める。警告のように、足の裏に小石が食い込んだ。
この程度の痛み、すぐに消える。
二歩目の直前、隕石でも衝突したかのような重い衝撃に背中を殴られた。
地に薙ぎ倒された俺を、硬い靴が踏みつけた。
「ごめんなさいね」
女は無慈悲に言った。
「生きていてよかった。もちろん、本心だよ?」
知っている声。聞き馴染んだ声。
きっと、美麗な悪役面をしているのだろう。冴えた月に照らされて、澄んだ黒スーツに身を包んで、黒い狐面の下で口角を上げる。そんな
でも、内側までは認められない。
「違う、なんで――」
動こうとした瞬間、ぐぐ、と激痛が肺を塞いだ。
「残念。疑う余地無く私だよ。時間稼ぎありがとね、夜絃くん。おかげであの子を捕まえられた。知ってる? この炎、あの子が放ったものなんだよ」
まるで、いつもの冗談みたいに言った。比喩でなく、冗談だ。冗談に違いない。彼女らしくない、悪趣味な嘘だ。
「……笑えませんよ」
「あの子を信じてるんだね。でもさあ、会って数時間の身元不明の怪しい子供、どうして信じられるわけ?」
「疑わしい点が無いからですよ。たとえ何か後ろ暗い素性があったとしても、ウチを燃やすことはあり得ません。正直、あなたのほうが怪しいですよ」
「んー……君はそうだよね。ほんと、お
何一つ、理解できない。
確かに、ヤヨイが火災と無関係ではないとは感じている。だからって、あの子が犯人であるはずが無い。むしろ、被害者側だろう。
そもそも、怪物だとか神様だとか、この人は唐突に何を言っているのか。
だというのに、狐葉さんに言われると、否定しきれない。裏切り者の「もしも」が浮かぶ。その僅かな可能性が正解なら、助ける必要なんて無いのではないか。
…………。
遠くから響いてきたサイレンが静寂を破る。サイレンは炎の付近で停止した。そして、消防隊員達が現れ、淡々と消火活動を開始する。
俺は彼らに助けを叫んだ。けれど、彼らはこちらを向きもしない。聞こえていないのか、あるいは。
狐葉さんが、「しーっ」と息を吐いた。蛇の威嚇に似た微かな息は、まるで耳元で囁かれたかのように脳の奥まで貫いた。
「取って食おうってわけじゃないよ、私は人間だもの。でも、君には処置を施させてもらうよ」
「処置、って」
「一般人に戻るだけさ。大丈夫、優しくしてあげる」
ちっとも優しくない声で言うと、狐葉さんは俺に腰を下ろした。
首に手が近づく気配がする。けれど、腕にも脚にも力が入らない。
昔日の痛みを幻視して息が上がる。暗くなっていく視界でも、はっきりと見えた。
――それなのに、嫌いになれなかったのはどうして?
泣き声を漏らす扉の前に座る少年。ドアノブを回せなかった青年。
そんなの、ずっと考えてきた。でも、ずっとわからない。
もう関係無い。どうだっていい。
瞬きから覚め、目線を遠くへやった。
植え込みの陰に、黒猫のぬいぐるみが転がっている。ミミだ。攫われた時に落としたのだろうか。
プラスチックの黒い目が、未だ消えない炎を反射している。真っ黒い身体の中で、その二点だけがきらきらと輝いている。炎を受け入れまいと、その目だけが、強く、強く。
――ああ、今更。
そうだ、俺は守りたいのだ。
意地と勘で動いた手は、すんでのところで腕を掴んだ。
「俺は――あの子と、約束をしました。絶対に守ると言いました。約束した以上は、責任を果たすほかありません。彼女が犯人だとしても。これが俺の感情ですよ、狐葉さん」
「……言うようになったね。でも、それはそれだ」
手を振りほどかれた。首を鷲掴みにされた直後、鋭い痛みが刺す。ジクジク、血流に乗った痛みは、甘く豹変した。泡のように弾けて、肉を、骨を侵していく。
「我が儘じゃ、ゲームオーバーは覆らないんだよ」
身体は融けてしまったのだろうか。もうどこにも見つからない。
胸焼けしそうな甘さが脳髄にふれた。のうが、触れる。世界がぐるぐる、くるくる、ぐるり、くるっていく。
おれはまだ消えちゃだめなのに。
でも、すこし、ねむるだけなら。
さいごに、だれかのこえがした。
酷い夢を見た。
跳ね起きると同時に、重い頭痛が脈動する。
「駄目、まだ寝てないと」
そう言って布団をかけ直したのは、若い男の手。
深呼吸を繰り返すうち、重苦しい脈動が収まり、視界が明瞭になる。
白っぽい色で統一された、アパートか何かの一室。ベッドの傍らには、心配を露わにした響が座っている。その奥には、ソファで本を読む大男がいた。
彼は、感覚器官以外がすべて包帯で覆い隠されている。ページをめくる手にも、包帯が巻かれている。まるでハロウィンの仮装。体型的にはミイラそのものだ。
すると、目線を遮るように響が俺の顔を覗く。
「夜絃、喋れそう?」
「ああ。……何があった?」
「ユーサイに――いや、狐葉さんに襲われてた君を保護した。大丈夫、居場所はバレてない。そして、ここは僕の居候先。向こうに座ってる人が――あれ?」
「
包帯男は、いつの間にか響の横に並んでいた。響よりも頭一つ分は大きく、俺は思わず息を呑んだ。
彼は目を細め、やはり包帯で覆われた掌をひらひらと振る。
「よろしく、福路夜絃くん。君のことは響から聞いているよ」
渋みと重みのある声が年齢を感じさせる。それが一層、彼の得体の知れなさを増幅させている。
喫茶店にも色々なお客様がいらっしゃった。今更、容姿で驚くようなことは無いと思っていた。だが、狐のお面よりも衝撃的な姿に、俺の思考は釘付けだった。
「気になるかね? 取ってみせようか?」
「怖がってるんですよ。座ってください、デカいんですから」
「む、そうだな。そうさせてもらおうか」
響に譲られ、葛器と名乗った男は椅子に腰かけた。それでも消えない威圧感は、包帯と天性のものだろう。
「ジロジロ見てしまってすみません。こちらこそ、よろしくお願いします」
「うむ。これは先の火災にやられてしまってね。ただの大火傷だ。気にすることじゃない。さて、恩を売るわけではないが、君に頼みがある。我々に手を貸してくれないかね」
「……犯人探しですか? それなら、響とも約束しましたし」
響を見ると、彼はばつが悪そうに視線を返した。
「ちょっと違うんだ」
「どういうことだ?」
「私が説明しよう。説明を聞いて、賛同できないというなら、構わない。君を安全な場所に送ろう」
じっと、俺の目を見つめながら、葛器さんは話し始める。
「君の喫茶店の常連に、狐葉という女がいるな」
「……はい」
「彼女はとある組織に所属している。組織の名は『ユーサイ』。異能者を捕らえては、兵器として利用している連中だ。喫茶店にいたという少女も、奴らに攫われたのだろう」
「あの、異能者って?」
「ああ、そうか。君は知らないか。……響」
細く白い先端に、ちっぽけな火が点いた。蝋燭ではなく、響の指先に。
そこには、タネも仕掛けも見当たらない。催眠にかかったかのように見入っていると、火は細い煙となって消えた。
「大抵の異能者はもっと派手だけど、僕はこの程度。手品か何かに見えるよな。こんなのじゃ、納得できなくてもしょうがない。ただ、あの人達はそんな馬鹿げた理由であの子を攫った、そう解釈してもらえればいい」
響はやや俯いて、前髪の奥から目線だけを寄越す。
それは嘲りを含んだ目。どうせ信じてもらえないと、諦めきった色。
それを向けられるのは、二度目だ。一度目は、いつだったか。けれど、俺はこの目に弱いのだった。
「無理にでも納得するさ。あの子も火を扱えるみたいだし」
「――え」
「知っていたのかね?」
「狐葉さんに言われたので。あの人が言うには、穂麓町も喫茶店も彼女の仕業とか。俺には到底、信じられませんけど」
「ふむ、相当な悪党のようで安心した。まさか、無辜の少女一人に罪を擦りつけるとは。その少女が炎を操れたとて、そこまでの動機など持つまい。それとも、虐殺を愉しむ非道な少女だったのか?」
「いいえ。そんなこと、あの子にはできません」
強い語気で否定した俺を、葛器さんは興味深そうに覗きこむ。
「そうか。ちなみに、火災の調査だが。規制をかけたのは奴らだよ」
黒い瞳が、俺の反応を、奥底で揺れ動く心を見据えていた。
「……逃がす気、ありませんよね?」
「ははは。まあ、無理強いはしない。君が頷いてくれるのなら、我々も全身全霊で手を貸そう」
「本当に無理しないで、夜絃。軽々しく頼んだ僕も悪かった。まだ、そんなに時間経ってないだろ」
それは、お前だって――
元より、逃げる気なんて無かったが。
これではもう、迷うことも許されない。
「お願いします。俺は、あの子を助け出さなければいけない」
俺は起き上がって、頭を下げた。顔を見られないように、深く。
肩に手が置かれた。
「よく言った、少年。必ず、彼女を奪還しよう」
「少年って年じゃありません」
「なに、私からすればまだまだ少年だよ。ところで、少女の名を訊いてもよいか?」
「――ミミです。名字や漢字は知りません」
葛器さんは納得したように頷くと、早速準備に取りかかった。
俺は、椅子を片付けようとする響に目をやった。いつもの響と目が合った。
「どうかした?」
「お前も、無理するなよ」
「ありがとう。平気だよ」
いつもの笑顔を向けると、自分の服を貸すと言って、響は離れていった。
……俺は、葛器さんを信用できていない。輪郭の明瞭でないモノが、思考に澱んでいるのだ。言ってしまえば、勘である。多分、未だ狐葉さんを信じているというのもある。
とはいえ、彼と手を組まなければ、俺の手がヤヨイに届くことは無いだろう。本心が悟られないように、上手いことやるしかない。
俺はベッドを降りた。足の裏が、まだヒリヒリ熱を持っている。
どんなお客様が来店された時より、胃がキリキリ軋んでいた。
背格好が似ていたおかげで、響の服は大体着られた。けれど、上着は一着しか無かったので、葛器さんのコートを借りることになった。
「……少し、大きいかな」
「大丈夫ですよ、十分動けますので」
「似合ってるけど、何か足りない。……貫禄?」
「しょうがないだろ、俺はまだまだ若造だ」
喫茶店跡に向かうため、俺達は葛器さんの運転する車に乗りこんだ。
灰色がかった水色が、目を覚まし始める人々を見守っている。いつの間にやら朝になっていたらしい。
静寂が薄れゆく住宅街をすり抜けていく車は、まるで太陽から逃げているようだった。
炎の影も無い景色を眺めていると、ふと、脳裏に反射した炎がちらついた。
「あの……俺が倒れていた近くに、何か落ちてませんでしたか?」
「見ていないな」
「僕も見てない。落とし物?」
「……そんなところ。大したものじゃないし、気にしないでください」
俺は再び、視線を外に戻した。
ミミと名付けられた黒猫。あんなところに落ちていたのでは、消火完了の前に引火して燃え尽きているだろう。だが、俺にはそう思えなかった。あれだけ抗っていたのだ、炎に負けるはずが無い。
俺は身体の陰で、拳を握りしめた。