学問の街・ブンキョウシティ。
その中央に位置する巨大図書館は、日々多くの学生が知識を求めて訪れる場所だ。
そして今日も、ひとりの少女がその扉をくぐる。
「今日は…この本を読もうと思います!」
つる子は、小さな声で自分に言い聞かせるように呟いた。
手にしたのは、何冊かの文学作品。恋愛小説も混じっているが、それはあくまで「検証のため」である。
「……ふう、まずはどこに座りましょうか」
ふと見渡したとき、奥の窓辺の席にひとりの青年が座っているのが目に入った。
暗い色の着物をまとい、手元の本に視線を落としている。
傍らにはコーヒーのカップ。図書館に似つかわしくない気だるげな雰囲気を漂わせていた。
(あの人…なんとなく、只者ではない気がします)
つる子は少し迷ったが、窓辺の席がちょうど空いていたこともあり、その人物の向かいに座ることにした。
「…………」
青年は、じっとつる子を見た。
まるで、興味深い珍獣でも見つけたかのような目をしている。
「おやおや、可愛らしいお嬢さんが、こんな場所に来るなんて。何を読まれるのです?」
突然話しかけられ、つる子はびくっと肩を跳ねさせた。
予想外の低く柔らかい声。その響きに、なぜか妙な重みがあった。
「え、えっと……」
慌てて手元の本を抱きかかえる。が、彼はその動作より早く、本の背表紙を見て、口の端を持ち上げた。
「へえ、恋愛小説ですか」
「っ…! ち、違います! これは…あの、その……検証のために!」
「検証?」
「えっと……流行っているものには何か理由があるはずで、それを知ることで、学問的な視点からの分析が…」
「ほう」
青年はくつくつと笑った。からかうような、それでいてどこか優しい笑い方だった。
「では、お嬢さんはまだ恋を知らない?」
「……っ」
思わず言葉に詰まる。
青年はどこまでも余裕たっぷりに、頬杖をついてつる子を見つめていた。
「恋を知りたくば、本を読むのもいいですが……実際にしてみるのが一番ですよ」
「なっ…!? そ、そんなの、まだ…!」
「ふふ、では私が教えて差し上げましょうか?」
「!?!?!?!?!?」
つる子は瞬時に真っ赤になり、慌てて立ち上がった。
「け、結構ですっ!!」
「残念ですねえ」
青年は肩をすくめ、少し面白そうに目を細めた。
「ですが、恋というのは厄介なものです。時に甘美で、時に苦しく、時に破滅をもたらす……」
「……」
その言葉が、なぜか妙に重く感じた。
彼の表情は相変わらず飄々としているのに、どこか寂しげにも見えた。
「まあ、あなたにはまだ早いかもしれませんね」
静かに本を閉じ、青年は立ち上がる。
「それでは、お嬢さん。素敵な”検証”を」
そう言って、彼は軽く手を振ると、図書館を後にした。
窓の外には、沈みかけた夕日が柔らかな光を投げかけている。
「……なんだったんでしょう、あの人……」
つる子は、心臓がどきどきと跳ねるのを感じながら、再び本を開いた。
けれども、さっきまで夢中で読んでいた恋愛小説の内容が、どうにも頭に入ってこなかったのだった。
(……私、まさか……)
彼女はまだ、恋を知らない。
だけど今、心のどこかに、あの気だるげな青年の姿が残っているのだった——。
《おわり》