特別な力も使命もない、ただそこにいて、ただ生き延びた人間の視点から描くガンダムの世界。
彼が見たもの、感じたものが、あなたの心にも静かに残りますように。
カツン、カツン――靴音が、静かなドームの中に乾いた音を響かせていた。人工の大気、人工の重力、人工の空と地平線。その全てに未だ慣れないまま、神谷悠(かみや・ゆう)は手にした段ボールの重みだけを頼りに、歩みを進めていた。
ここはサイド7。連邦の最先端技術を誇るコロニーでありながら、戦火を避けた“安全圏”として機能しているはずの場所。だが悠にとって、それはもうひとつの意味を持っていた。
――ここは、ファーストガンダムの舞台だ。
思い出せるのは断片的な記憶だけだ。確かに「アムロとシャア」がいて、「白い機体」が活躍して、最終的に――いや、そこから先はもう曖昧だ。ネットで見かけた程度の印象。ストーリーを追っていたわけではない。けれど、目の前の景色が、それを徐々に確信に変えていく。
「おーい、神谷さん、こっち!」
明るい声に顔を上げると、フラウ・ボゥが手を振っていた。目立つオレンジ色のワンピースとポニーテール。懸命に笑顔を作るその姿が、コロニーのどこよりも“人間らしい”温度を持っていた。
「悪いな、ちょっと荷重が片寄ってな」
「まったく、避難民のくせに動ける男は貴重なんだから、もっとサボらず働いてよねー」
笑いながらも、フラウの目にはわずかな緊張が滲んでいた。戦争が近づいている。ここが“安全圏”であり続けられる保証なんて、どこにもない。誰もがそれを知っているのだ。
悠は黙って荷物を下ろし、ふと整備区画の奥に目をやった。そこには、まだ幼さの残る少年が立っていた。年齢は自分より一回り下――だが、その瞳だけが異様に冷たかった。
(……誰やっけ、あの子)
ふとした既視感。名前が口の中で転がる。どこかで――どこかで、あの目を見たことがある気がする。
「君、新しい避難民?」
少年が近づいてきて、唐突に話しかけてきた。
「ああ、そう。今日からここで雑用ってことで……神谷悠。君は?」
「アムロ。アムロ・レイ」
その瞬間、空気が一瞬だけ静止したような感覚が走る。
(アムロ……? どっかで聞いた名前やな。いやでも……)
記憶の靄は晴れない。ただ、“何か”を思い出しそうな感触だけが、胸の奥に居座った。
「アムロ……君、機械いじり好きなん?」
「……まあ、父が技術者で」
それ以上、会話は続かなかった。アムロは再び機体の整備へと意識を向け、悠はどこか取り残された気分でフラウのほうへ戻っていった。
「あの子と話したの?」
「ん? ああ……なんか変わった子やな」
フラウは少しだけ寂しそうに笑った。「昔からね。人付き合い、あんまり得意じゃないのよ」
そう言って、彼女はほんの一瞬だけ遠くを見つめた。
昼を少し過ぎた頃だった。突如としてコロニーに警報が鳴り響いた。
――非常警報。これは、訓練や誤報ではない。心臓の裏を冷たいものが撫でる感覚が、悠の全身を貫いた。
「ジオン軍のモビルスーツが侵入、避難経路に従って――!」
叫ぶような拡声器の声。人々の足音が一斉に動き出し、わずかな秩序はあっという間に混乱へと変わっていく。
悠は手に持っていた工具を落とした。手が、震えていた。
(ジオン? 本物の、ジオンの……)
理解が追いつかない。記憶の片隅にある世界と、今目の前で起こっている現実が、重ならない。
フラウの声がした。「悠さん、こっち! 避難経路は南通路!」
とっさに駆け出す。コロニー内の人工重力が、逃げ惑う人々の悲鳴と混ざって歪んで聞こえる。足がもつれそうになりながらも、悠は必死にフラウを追いかけた。
「アムロは!? アムロはどこ!?」
フラウが叫ぶように誰かに尋ねる。誰も答えない。避難民たちは、自分の家族の名前しか呼んでいない。
そして、その瞬間だった。
轟音。まるで、世界がひっくり返ったような振動が走った。
「うわっ……!」
足元が揺れ、天井のパイプが砕け、火花と煙が辺りを包む。崩れた通路。悲鳴。誰かが泣いている。
悠は、フラウの腕を引いて物陰に飛び込んだ。
(ああ……俺、ほんまに、ここに来てしもうたんや)
これが、ガンダムの世界。
これが、“戦争”だ。
空想だったはずのものが、皮膚の下で血の温度として、今確かに脈打っている。
「そこの君たち、急いでホワイトベースへ!」
軍服姿の男が指を指す。その先には、見たこともない巨大な船――ホワイトベースがあった。
悠はその名を、知っていた。たったそれだけで、目の前の現実がさらに怖くなる。
「あれ……あかん、ヤバいやつや……!」
「悠さんっ、行こう! ここにいたら死んじゃう!」
フラウに引かれるまま、悠は船の中へと滑り込む。薄暗いハッチの奥、整備員たちの怒号、響き渡る爆発音。
目の前で世界が崩れていく。
---
そして、艦内のモニターに映った。
――白い機体が、立ち上がっていた。
「あれ……なんや、あれ……?」
悠は思わず、息を止めた。
鋼の身体。無表情のマスク。赤と青の配色がどこか派手で、戦場にそぐわないほどに“浮いて”いた。
けれど、モニターに映るそれは、まるで人間ではない何かのようだった。
ザクが向かってくる。
白い機体が――動いた。滑るような加速、腕の振り、ビームサーベルの発光。
そして、爆発。
緑色の機体がバラバラに砕けていく。
その中心にいた、**白い無表情な“顔”**が、悠の目を離さなかった。
(あれの中に……誰か、いるんか……?)
もちろん、いるはずだ。そうでなければ動くわけがない。
だが、それが“人間”であるという実感が、どうしても湧かなかった。
いや、むしろ、考えたくなかった。
「人……が、死んだんか、今……?」
誰にも答えられない問いを、唇が震えながら漏らす。
隣の誰かが歓声を上げた。「すごい……あの白い機体、敵をやっつけた!」
けれど悠には、“やっつける”という言葉が、やけに遠く思えた。
(あれが味方? あれが……俺らの守り手?)
心臓の奥が、ひやりと冷える。
守られているはずなのに、むしろ“狙われている”ような、そんな錯覚。
白い機体の顔が、こちらを向いたように見えた瞬間、悠は思わず目をそらした。
(怖い……なんやねん、あれ……)
それは“強さ”じゃなかった。
悠がそこに見たのは、“人を殺すことに何のためらいもない”という、純粋な無機質さ。
鋼鉄の仮面が、まるで生きているように敵を葬っていく光景が、いつまでも目に焼き付いて離れなかった。
戦闘が終わったのは、それから数分後のことだった。
けたたましかったアラートも、途切れがちな通信も、嘘のように静かになっていた。
だが、悠の耳にはずっと、あの白い機体がザクを引き裂いたときの爆発音が残っていた。
「……終わったのか?」
誰にともなく呟いたその声は、思っていた以上にかすれていた。
冷えた手のひら、汗で濡れた背中、震える膝――どれも、自分のものなのにどこか他人の感覚だった。
「生きてる……んやな、俺」
その実感だけが、いまは唯一の現実だった。
ホワイトベース内部では、すでに避難民の点呼と医療対応が始まっていた。
混乱の中、フラウ・ボゥも必死に誰かを探し回っている。アムロの名前を呼ぶ声が、遠くで何度も響いていた。
けれど悠は、それを追おうとは思えなかった。
(あの白い機体の中に、アムロが乗っていたんか……?)
いや、乗っていたのかもしれない。けど、そう思いたくなかった。
あれは“人間”には見えなかった。
むしろ――人間であってほしくなかった。
「乗ってたんやったら、もう……あの子は、戻ってこられへんやろ……」
誰にも聞こえないように、小さく呟いた。
休憩用のベンチに腰を下ろすと、整備班の数人が駆け足で目の前を通っていった。
「モビルスーツデッキ、ガンダム帰還!」「急げ、放熱が間に合わんぞ!」
ガンダム――そう呼ばれている。
人々が讃えている。
だが悠の脳裏には、あの冷たいマスクと、爆発四散する敵機の映像が、ただただ焼き付いていた。
(あれが“希望”の象徴? ……俺には、そうは見えん)
どこまでも無表情で、命を奪うことに一切の“感情”を見せなかったあの機体。
たとえ中に誰かがいたとしても、それを“人間”とは呼べなかった。
ふと、足元に小さな破片が転がっているのに気づいた。
焦げたボルトの欠片。それはきっと、誰かが守ろうとした機械の一部で、誰かがそこにいた証だ。
拾い上げて、じっと見つめる。
(俺は……ここで、何をするんやろ)
逃げ込んだつもりだったホワイトベースが、戦場の真ん中だと知った。
誰もが戦っている。
守るために、殺すために、あるいはただ生き延びるために。
悠にはまだ、何もできない。
でも、はっきりとわかることが一つだけあった。
――もう、“普通”には戻れない。
それでも、生きている。
生きて、この先を見てしまうのだ。
ガンダムの影が、艦の格納庫に沈んでいく。
その影の中に、あの少年――アムロ・レイがいるのかもしれない。
でも、もうあの瞳は見えない。それが、なぜかとても恐ろしかった。
【次回予告・第2話「見ているだけの俺たち」】
ジオンの追撃が迫る中、ホワイトベースは宇宙を離脱する。
生き延びた安堵の裏で、悠の胸に残ったのは“何もできなかった”という悔しさだった。
繰り返される戦闘、縮まらない距離、そして――アムロの背中が、少しずつ遠ざかっていく。
次回、「見ているだけの俺たち」。
それでも俺は、まだここにいる。