けれどそれは、懐かしさではなく、遠さとして胸に迫ってくる。
戦争の只中に置かれたホワイトベースのクルーたちが、初めて“地球”という現実へ向かう時――
神谷悠の心にも、逃れられぬ変化が芽吹いていく。
ルナツーを離れたホワイトベースは、青く輝く地球を遠くに見据えながら、静かに軌道上を滑っていた。
出撃したアムロとガンダムが敵襲を退け、艦内にも安堵が広がっていたはずだった。
けれど、神谷悠の心の中には、妙な“浮遊感”が残っていた。
「――……ハッチ閉鎖、確認。あとは補助電源の点検か」
整備区画の片隅。神谷は倉田の指示で、先行量産型ジムの簡易点検をしていた。
倉田はモニターを睨みながら、小さく舌打ちをする。
「ん。やっぱ関節部の駆動音が微妙にズレてるな。これじゃ、アムロ・レイのログ通りに動かすとすぐに軋む」
「……そもそも、こんなもんにアムロさんの真似させるの、無茶なんやないですか?」
思わず神谷が言うと、倉田は目を細めて肩をすくめた。
「無茶だよ。でもな、それでも“真似させてみる”ことで、限界が見えるんだ。
この機体が“兵器になれるかどうか”は、パイロットじゃなく、俺たちの判断で決まる」
「兵器に“なれるかどうか”……」
神谷は、ジムの白い装甲を見上げた。
ガンダムよりも一回り小さく、無骨で、量産を意識した簡素なデザイン。
けれどその中に、自分がかつて“座った”記憶が宿っている。
(……あの時の震え、まだ手のひらに残ってる)
ただの整備補助だった自分が、初めて“兵器の中”に入った。
それは恐ろしくて、でも、確かに何かを変えた。
「なあ、神谷。お前、またこいつに乗ってみたいと思うか?」
不意に倉田が問いかけた。
神谷は驚いたように目を見開き、けれどすぐに、ゆっくりと頷いた。
「……怖いですけど。……思います」
倉田はニッと笑い、メンテナンス用のハンドツールを放り投げて受け取った。
「いい目してるじゃねぇか。
“怖い”って感覚を忘れないまま乗れる奴が、この戦争には必要なんだよ」
重力のない空間で、機体に手を添えた神谷の身体は、わずかに浮いていた。
その身体よりも、もっと不確かな“覚悟”が、まだ心の奥で揺れていた。
医療区画は、わずかに暖かい空気に包まれていた。
宇宙空間を漂う艦の中で、人工重力装置がわずかに効いているとはいえ、感覚は不安定だ。
とくに体調を崩している避難民やクルーの中には、重力酔いや倦怠感を訴える者も多い。
神谷悠は、そんな一人の青年の体を支えながら、セイラ・マスと並んでいた。
「少しずつ、深く吸って……そう、はい、もう一度」
セイラの声は落ち着いていて、相手の緊張を和らげる力があった。
神谷はその様子を横目に見ながら、タオルで額の汗をぬぐう。
「こんな、浮いてるんか沈んでるんかわからん状態……なかなか、しんどいですね」
ぼそりとこぼすと、セイラが少しだけ微笑を浮かべた。
「重力って、不思議ですよね。
あると当たり前だけど、ないと心も体も浮いてしまう」
「……ああ、なんか、わかる気がします」
神谷は、艦の壁に背を預けて天井を見上げた。
地球が近づいている。そう言われても、実感がない。
目に映るのは、無機質な艦内と、淡々とした業務の連続。
それでも、どこか“何かが変わる前”の空気だけは感じていた。
「悠さん、地球に降りるの、怖いですか?」
唐突な問いに、神谷は視線を戻す。
「……正直、ようわかりません。
怖いっていうより、ピンと来てない感じです。
“降りる”って、俺らにとって、どんな意味あるんですかね」
そう言ったあと、神谷はふと、自分でも思いがけず、ある記憶に引き込まれていった。
――転生前の、地球。
四季のある世界。
夜の風に揺れる竹林。蝉の鳴く坂道。
地面を踏みしめて歩いた感触。
それらが、自分の足元に確かにあった時代。
この世界の地球は、それとは違う。
同じ名前で呼ばれていても、同じ青い星でも、
自分が知っていたそれとは、まるで別の存在のように感じられた。
(俺は“地球に戻る”んやなくて、“知らん地球に降りる”んや)
そこに立ったとき、自分は何を思うんだろう。
懐かしいと感じるのか、異邦人として疎外されるのか。
――わからない。でも、わからないままじゃ、足は動かない。
「セイラさん。……俺、降りてみたいです」
神谷はぽつりとそう呟いた。
自分でも驚くほど、自然に出てきた言葉だった。
セイラは静かに微笑んだ。
「……それは、良いことね。
たとえ知らない地でも、“立ちたい”って思えるのは、強さだと思うから」
神谷は、艦の壁に背を預けて、もう一度天井を見上げた。
“空”なんて見えないのに――
その向こうに広がる、“知らない地球”の重みが、少しだけ感じられた気がした。
格納庫の一角で、神谷悠は先行量産型ジムの足元に佇んでいた。
その無骨で素っ気ない装甲を見上げながら、彼はかすかな浮遊感とともに、先ほどの整備作業を思い返していた。
「また見に来たの? そのジム」
背後から届いた声に振り返ると、そこにアムロ・レイが立っていた。
工具箱を小脇に抱え、戦闘の余韻をどこかに置き去りにしたような顔をしていた。
「……あ、ども、アムロさん」
「“さん”付けるなって。僕、そういうの、慣れてないからさ」
小さく苦笑しながら、アムロはジムの肩に目をやる。
「呼び捨てでいいよ。……僕ら、そんな歳、離れてるわけでもないし」
「じゃあ……アムロ。……うん、慣れるまで時間かかりそうやけど」
短いやりとりのあと、神谷は少し声を落として問いかけた。
「……アムロ。敵を倒すとき、怖くないん?」
アムロは、しばらく黙った。
「……怖いって、何が?」
「いや……撃ったり、斬ったりした時、そこに“人”が乗ってるって、考えたりせえへんのか?」
アムロは、少し眉をひそめた。
「……あれって、“ロボット”でしょ。ザクとか。赤いマークがある敵機を、狙って……撃つだけ」
「でも、その中に人が乗ってるんや。死ぬかもしれへん。いや、死んでるはずや」
「……そうかも。でも、見えないんだ。
爆発したあと、そこに誰がいたのかなんて、わからないし。
僕にとっては、“敵”って表示されてる赤い反応を消してるだけ……たぶん、今はそれしか考えてない」
その言葉に、神谷は息を呑んだ。
彼は、戦ってはいる。でも、何と戦っているかを、まだ知らない。
「それが……怖くないんか。わからんまま、殺してるかもしれんってこと」
「……考えてない。考えたら、手が止まる」
アムロの声は、静かだった。でも、どこか遠かった。
「……それでも、止まるよりはマシなんだ。止まったら、僕がやられる。
それだけは、わかってる」
神谷は何も言えなかった。
彼の中にある“死”の重みと、アムロの無意識さ――その距離に、寒気すら覚えた。
(……この人は、まだ“誰も殺してない”と思ってるんや)
そう思った瞬間、自分がこの戦場にいることの意味が、また少しだけ重くのしかかってきた。
ホワイトベース艦内に、久しぶりの静けさが訪れていた。
緊急警報も沈み、照明はやわらかく、艦の揺れも最小限に抑えられている。
誰もが“この時間が長く続くことはない”と知っているからこそ、余計にその静けさが染みた。
神谷悠は、廊下の端に寄りかかって座っていた。
整備作業も、補助任務も一区切り。体は動いていないはずなのに、妙に疲れていた。
「……俺は、“誰を見て”震えたんやろな」
アムロの言葉が、頭から離れなかった。
彼は戦っている。だが、自分が“誰を殺しているのか”を知らないまま、トリガーを引いている。
それが、どうしようもなく怖かった。
「おいおい、なんかあったのか?」
低くてどこか安心感のある声が、隣から聞こえた。
見上げると、リュウ・ホセイが立っていた。
手には紙コップに入れた熱い飲み物。
大きな体をゆっくりと折り曲げて、神谷の隣に腰を下ろす。
「その顔じゃ、カイに女でも取られたんじゃねぇかってレベルだぞ」
「……ちゃいますって。なんや、ちょっと、考え込んでただけです」
「考え込むタイプなんだな。
……ま、そういうやつが一番先に潰れやすいってのが、この世界の嫌なとこだけどな」
リュウの言葉は冗談交じりだったが、その奥に優しさがあった。
「悠って名前だったな。お前、なんかあったろ。目が、ちょっと硬くなってる」
神谷は驚いたように顔を向ける。
「……リュウさんって、人の顔見るの、得意なんですね」
「まあな。ガンダムの中身をわかんなくても、人の顔色はわかるほうでな」
冗談めかして言いながらも、リュウの目は真っ直ぐだった。
「なあ、悠。怖がるのは当たり前だ。
でもな、怖いってことは、“何かを壊したくない”って思ってる証拠だ」
その言葉に、神谷は目を伏せた。
(……アムロは、壊してることにすら、気づいてへんかった)
「それでも、ここにいるんやったら、目ぇそらしたらあかん思てます」
「それでいいさ」
リュウは立ち上がり、手に持った紙コップを神谷に差し出した。
「冷めないうちに飲めよ。これ、ミライの差し入れだ。うまいぞ」
「あ、はい……いただきます」
リュウが去ったあと、神谷はしばらくコップを見つめていた。
その温もりが、ほんの少しだけ、心に沁みた。
コップの中の湯気が、じわりと薄れていく。
リュウが去った後の廊下は静かで、神谷はその温もりを指先で感じながら、ぼんやりと地球のことを考えていた。
(降りたら、何があるんやろな。俺の、立つ場所なんか……)
そんな風に思っていたときだった。
「……何をぼんやりしているの?」
背後から、凛とした声が届いた。
振り返れば、セイラ・マスがこちらを見下ろしていた。
手には次の医療業務のリストと思しき端末。表情はきっちりと、容赦がない。
「疲れてるのはみんな同じ。
でも、そこに座って不安そうな顔をしてたら、周りの人間まで不安になるわ」
その言葉に、神谷は思わず姿勢を正した。
「……すんません。でも、俺、なんか……考えがまとまらんくて」
セイラは神谷の隣に立ち、わざと軽くため息をついた。
「悠さん。あなたがどれだけ混乱してても、戦場は待ってくれない。
“わからない”ままでも、“不安”でも、歩き続けなきゃいけないのがここよ」
「……歩き続ける」
「ええ。わからないなら、せめて“目を開けて”歩きなさい」
その言葉は、刺さるような鋭さだった。だが、不思議と冷たくはなかった。
「あなたが震えていたこと、私は悪いことだとは思わない。
でも、震えたまま止まっていたら、誰かが代わりに傷つくわ。
だったらせめて、自分の足で一歩を踏み出しなさい。それが“覚悟”ってものよ」
神谷は、思わず唇を噛んだ。
「……セイラさん、なんや今日はキツめやないですか」
「リュウさんが甘い分、誰かが背中を叩かないとね」
それを聞いて、神谷は吹き出すように笑った。
久しぶりに自分の口から出た笑い声に、自分自身が少し驚いていた。
「わかりました。叩かれた分、前に進みますわ」
「それでいい」
そう言ってセイラは、微かに微笑んで立ち去っていった。
神谷の胸には、熱いコーヒーよりも少しだけ強い火が灯った気がした。
整備の中に垣間見えた兵器の現実。
セイラやリュウの言葉に支えられながらも、神谷は“地に足をつける”決意を少しずつ固めていきます。
アムロの瞳に映るもの、映らないもの――
それをただの「戦場の風景」として済ませられるかどうか、彼の中で葛藤は深まりつつあります。
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【次回予告】
ガンダム、出撃。
迫るジオンの包囲網の中、ホワイトベースは降下のタイミングを見極めようとしていた。
“敵”とは何か、“殺す”とは何か――その意味が音もなく神谷にのしかかる。
戦火の中で胸の鼓動だけが鳴り響く、第5部からの新展開――
次回、『軌道の果てにて』