碧空のキヴォトス-What a beautiful archive-   作:ユーラシアン

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3.5-6

 

 

 

 

《過去》

 

 

 

 ───まず感じたのは衝動だった。

 

 

 

 理由は分からない。原因も分からない。

 訳も分からぬままに心を突き動かす、それは強迫観念にも近いものだった。

 

 なぜ? なぜ? なぜ?

 そう問い続けても、目の前の暗闇は答えてくれない。

 

 最初にあったのはそれだけ。

 次に、わたしはかたちを与えられた。

 

 名前があった。

 記憶があった。

 "それ"が自分だという、自覚があった。

 けれど、実感はない。

 まるで知らない人の人生を映画で見たような、どこか他人事のようで現実感がない。

 

 それでも。

 心があった。

 夢があった。

 それがあったから。わたしはわたしだと強く自覚できた。

 

 夢を見ていたの。

 綺麗なものを見ていたの。

 クリアになっていく思考と共に、わたしはしっかりとかたちを持ち始めて。

 

 瞼を開ける。

 光が充ちる。

 

 ───そこは、古びた音楽室だった。

 

 

 

 

 

   ♰♰♰♰♰♰♰

 

 

 

 

 

 まるで夢を見ているかのような心地だった。

 

 目の前には黒塗りのピアノが演奏の時を待っていて。

 輝くライトに照らされた舞台には、割れんばかりの喝采が上がっている。

 

 自分のために用意されたステージ。。

 光り輝く、懸命に努力した人にだけ許されるだろう晴れ舞台。

 

 多分、

 以前のままなら、自責と緊張と不安とでまともに動くこともできなかっただろう。

 けれど、熱に浮かされたような浮遊感は、きっと緊張だけではないはずだ。

 

 ダイヤル式のトムソン椅子に腰かけ、鍵盤に指を添える。今までずっと練習してきた所作。

 自分はこの舞台に相応しいと、未だに思うことはできない。

 こんな自分がと、卑下する気持ちはそう簡単に拭い去ることはできない。

 

 けれど。

 私は音を奏でよう。

 今日までそうしてきたように。積み上げた全てを表現してみせよう。

 

 落ち着いて呼吸を整える。その時を待ちわびるかのように、会場に静寂が充ちる。

 数瞬の空白。

 脳裏に浮かぶのは、ふたりの姿。

 

 先生。

 あなたのためなんて言えないけれど。それでも、私はきっとやり遂げるよ。

 

 かつて諦めてしまったあなた。

 あなたのためなんて言えないけれど。それでも、私はあなたの夢を継いでみせるから。

 

 心を決める。

 それは物語のヒーローのような、果断の覚悟とは程遠いけれど。

 今から自分の行う全てに後悔はしないのだと、それだけは揺るがないのだという確認だった。

 

 幕は上がっている。

 一指を動かし、張り詰めた静寂を打ち破る。

 調べに乗せて、私は喉を震わせる。

 

 約束を果たすために。

 残された想いに、応えてみせるために。

 

 先生。

 私、頑張るよ。

 

 

 

 

 

   ♰♰♰♰♰♰♰

 

 

 

 

 

《過去》

 

 

 

 ───音が聞こえる。今日も。

 ───それだけが、私を構築するすべて。何もかもが偽物の中で、ひとつだけ。

 

 わたしは聞いていたの。

 見るよりも先に。感じるよりも先に。

 わたしは、音というかたちで世界を認識した。

 

 音。旋律。

 ひとつの曲を目指して奏でられる、いくつもの音。

 それを生み出すのは、白い髪のあなた。

 

 最初はお世辞にも上手じゃなかったね。

 何度も失敗して、やり直して。また同じところで躓いて。

 何度も、何度も。ぐちゃぐちゃの道路を少しずつ直すように、あなたはそれでも鍵盤を叩いて。

 

 がんばれ。

 気付くと、わたしはそう言っている。

 実際に口が動くわけじゃない。その時はまだ、わたしに体はなかったから。

 でも、言うの。

 体なんて二の次。

 心がそう叫ぶの。

 

 がんばれ。

 まけるな。

 あきらめないで。

 

 きっとこの声は届いてないのだろう。

 でも、それでいいんだ。

 だって、あなたは諦めなかったから。

 わたしの言葉なんかなくなって、あなたはすごく頑張っていたから。

 

 だから、わたしはあなたを見るの。

 とてもまぶしいもののように。

 絶対に届かないもののように。

 

 諦めないあなた。音を奏でるあなた。

 "わたし"が残したものを、懸命に受け継いでくれようとしているあなた。

 

 ありがとう。

 わたし、とっても幸せよ。

 

 

 

 

 

   ♰♰♰♰♰♰♰

 

 

 

 

 

 状況はあまりにも一方的だった。

 

「つっ───!」

 

 頬をかすめる衝撃を寸前に躱し、大きく後方に跳躍して転げるように着地する。その軌跡を追うように次々と木製の床が爆ぜ、巻き込まれた座席が破片となって千切れ飛ぶ。一転して立ち上がり、身構えたその鼻先に尚も迫る不可視の衝撃。目には見えぬそれを感覚のみを頼りに捕捉し、大きく身を捩ることで直撃を回避する。

 

「……ッ!」

 

 苦し紛れに放った小銃の一射が、しかし少女の胸を素通りして遥か後方の壁に深々と突き立つ。

 こちらの攻撃など文字通り意にも介さぬまま、少女は戦闘が開始されてから一歩も動くことなく茫洋とアリスを見遣っていた。

 

「すごいね。よくやるなぁ」

 

 この状況に似つかわぬ浮いた発言とは裏腹に、攻めの手は間断ない。

 不可視の迫撃は機関銃めいて周囲諸共を破砕しながら迫る。宙に舞い上がる木片を掻き分けるようにアリスは側方へ跳躍。半ば吹き飛ばされた体を空中で立て直し、着地の瞬間、拳銃に見立てた手指をこちらに向けて笑う少女の姿が視界に映る。

 

「ばぁん」

 

 冗談めかした言葉と共に、極大の破壊が大砲めいて襲い来る。

 総毛立つ暇もなく着弾。捻じれた破壊の渦は轟音と土煙を巻き上げて、散り散りに砕けた木椅子の残骸を雨のようにばら撒き降らせるばかりであった。

 

 徐々に収まっていく音響の中、ひとり佇む少女は手持無沙汰といった風情で呟く。

 

「……分かんないなぁ」

 

 本当に不思議そうな、心からの声だった。

 

「どうして続けようとするのかな。こんなことしても意味ないってわかり切ってるのに」

「どうしてだと思いますか?」

 

 吹き上がった粉塵から、暗闇ごとを切り裂くように数条の光が奔る。

 まるで土煙を中から切断するかのように、それらは少女の体をも通り抜けるけれど。しかし一切の破壊をもたらさない。光は、何を傷つけることもない。

 何の意味もない。

 抵抗も、奮戦も、この場で行われる何もかもが。

 

「知らないし、どうでもいいよ。聞いたところで答えてくれないんでしょ?」

「そうですね。どうせならこのままパーティが終わるまで続けましょうか」

「冗談」

 

 少女は腕を掲げ、振り下ろす。

 その所作だけで新たな衝撃が生まれ、一直線にアリスを襲った。

 アリスにできることはない。ただ避けるのみだ。避け、逃げ走り、光を放つ。

 そう、光。

 アリスの左手に集束する蒼銀の光は、もう何度も奔って。少女の体に突き立って。

 けれど破壊を起こすことはない。

 何の意味もない。

 そんなことは、他ならぬアリスが一番よく分かっているはずなのに。

 

「私からも問いましょう。どうしてあなたはそうするのか」

「どうして?」

 

 少女は、夜永カノンと呼ばれた彼女は笑う。

 おかしなことを聞くものだと。滑稽に、諧謔に、嗤う。

 

「そんなこと言うまでもないと思うけどな。噂話は聞いてるでしょう?

 その話の通りだよ。私は、そのためだけに存在している」

「決まり切っているから、その通りに動いているだけだと?」

「言ってる意味がよく分かんないなぁ」

 

 鬱陶し気に腕を振るう。それだけでいくつもの破壊が起きる。

 致命打を避け疾走し、柱の影に隠れアリスは尚も問いかける。

 

「私は夜永カノンの残した記録を見ています。そこに書かれた言葉も」

 

 返答はない。返されるのは破壊のみ。

 それでもアリスは続ける。

 

「その言葉が本心であるのならば、私はあなたに問いを投げたい。

 どうして、あなたはそうするのか」

 

 返答はない。返されるのは破壊のみ。

 遮蔽物に身を隠し移動するのも限界が近い。けれど、アリスは止めない。

 

「ピアノを愛したという夜永カノンの言葉が真意ならば。

 あなたの行動は矛盾している。それは決して、彼女が望むことじゃない」

「何を……」

 

 アリスと少女の言葉は何かが致命的にすれ違っていた。

 そのズレを自覚して、少女はようやく言葉を返す。

 

「何を言っている。それは私の言葉だ。私の想いだ。

 ピアノを愛したことも、夢を叶えたいという願いも。全ては、私の」

「いいえ、違います。それは違うんです。だって」

 

 アリスは口を開く。

 瞳を揺らすことなく。

 声を揺らすことなく。

 ただ、決然と。

 

 

「だって、あなたは夜永カノンではないから」

 

 

 その事実を。

 怒りでもなく、蔑むでもなく、哀れむようにして。

 

「夜永カノンは、本物のあなたは、二十九年前に正式にゲヘナを卒業しています。

 自治区近郊に居を構え、家庭を持ち、現在でも存命が確認されている。

 ゲヘナ学園における過去の自殺者は0人。七不思議の噂は事実無根の嘘っぱちです。

 音楽室の首つり幽霊なんて、本当はどこにもいなかった」

 

 その事実を口にしながら、アリスは立ち上がる。

 蒼銀に発光する左手を、向けながら。

 

「その上であなたに問います。

 あなたは、何を、したかったんですか」

 

 

 

 

 

   ♰♰♰♰♰♰♰

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Q.あなたの夢はなんですか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   ♰♰♰♰♰♰♰

 

 

 

 

 

《過去》

 

 

 

「一言お礼を言いに来たんだ。その曲を奏でてくれた、君に対して」

 

 咄嗟の言い訳だった。

 本当は会うつもりなんてなかった。

 けれど、つい、姿を現してしまった。しかも気配まで気取られて。

 

 逃げてしまおうか。それとも何て誤魔化そう?

 なんて思ってたら。無意識に、口を突いて出てしまって。

 

 口では無頼を気取っていたけれど。

 頭の中はいっぱいいっぱいだった。どうしよう、どうしようとそればかりで。

 

 でも、彼女はそんな自分には気付いてないみたいで。

 不思議そうに尋ねてくるのだ。

 

「……あなた、この曲を知っているの?」

 

 疑問の声。当たり前だ。古びた冊子にだけ書かれた曲など、誰が知るはずもない。

 けど自分は、自分だけは、それを何よりも知っていた。

 自分という認識が発生したその時から、ずっと、ずっと聞いていた音だ。

 だから。

 

「うん、知っているよ」

 

 何もかもが嘘でしかない私の、それはたった一つの真実だった。

 知っているわ。知っているの。

 だってあなたはずっと、私にそれを聞かせてくれた。

 記憶。想い。たったひとつだけ私に残されたもの。

 

 私の、私だと思っている誰かの抱いた、過去の夢。

 

「そう、なの。ねえ、あなたは夜永カノンさんのご家族なのかしら?

 私、その、勝手にこの曲を……」

「ううん、いいの」

 

 申し訳なさそうにするあなたに、私は声をかける。

 曲を盗ってしまったのだと要らない罪悪感でも抱いたのだろうか。そんなこと気にしなくていいのに。

 

 そうだ。気にする必要なんてない。

 だってこの私は、夜永カノンを象っただけのロアに過ぎず。

 本物の彼女は、もうこの学園にはいないのだから。

 

「良い音色。ねえ、あなたは今度のパーティに出るの?」

「……ええ。そのために練習を、って。それで……」

「なら、あなたさえ良ければこの曲を弾いてあげて」

 

 え、と彼女は顔を上げて。驚いたような目で私を見る。

 弾いてくれるなら渡りに船だった。だってそれは私の夢を叶えることに繋がる。

 あの大舞台で私は私の曲を弾く。だから、私はこの子に成り代わって音を奏でよう。

 他意はない。私は私の夢を叶える、それだけのために存在する。

 だから、この申し出だって自分本位のものに違いないはずなのに。

 

「……ありがとう」

 

 どうして。

 どうして、私はその場で彼女を殺さなかったのだろう。

 もう十分だったのに。彼女はたくさん練習して、私がその体を使えば間違いなく完璧な演奏ができるくらいに仕上がっていたのに。

 

 ほんの少し力を籠めてやれば、それで全部終わっていたはずなのに。

 

「私、きっと成功させてみせるわ。

 あなたと、夜永カノンさんに胸を張れるように」

 

 そう言ってはにかんでみせた、あなたに。

 私は手を伸ばそうとして。

 

 けど、どうしてかな。

 私には、あなたがとても眩しいものに見えたんだ。

 

 直視できないくらい。

 手を伸ばしても、届かないって感じてしまうくらい。

 

 だって、私は。

 私が、本当に欲しかったものは。

 

 

 

 

 

   ♰♰♰♰♰♰♰

 

 

 

 

 

《現在》

 

 

 

「……肉体という檻は、いずれ朽ちるのが運命である」

 

「記憶も、遺物も、死の事実を記す墓石さえもやがては朽ちて無くなっていく」

 

「万物は衰退するもの。死と消滅───それは生あるものが受け入れるべき宿命」

 

「いずれ消え去るものに意味はない」

 

「すべて。そう、すべて。あらゆるものは意味を持たない」

 

 男の声だった。

 少なくとも、声は男であるはずの影だった。

 

 人とは思えぬ影。

 双頭の、木切れの人形でしかない人型。

 髪はなく、貌もなく、辛うじて人の形を保つ輪郭だけが彼の人間性を担保する。

 

 その貌かたちは古めかしく曖昧で。

 けれど、放たれる声だけは明瞭だった。

 その声に含まれる響きは表現者の怜悧と熱情。

 

 告げる声は、無機質に観測する涼やかさを持って。

 告げる声は、心魂を捧げた芸術への情熱を伴って。

 朽ち果てた木石に似つかぬ感情を含んで、響く。響く。

 

「だが、芸術はそこに在り続ける」

 

「作り手の肉体が朽ち果てようと芸術は世界に存在し、価値を、存在を、境地を証明し続ける」

 

「それこそが唯一無二の《永遠》なれば。

 物語はいつまでも続く。死という結果を排した芸術は、永遠の過程であり続けるのだ」

 

 軋むように、擦れるように、声は響く。

 それは確かに人の声であって、けれど決してその通りではない。

 

 決して、決して。

 まったき人間の唇から漏れるものではない。

 

「紹介しよう。我々が作り出した、教義の人工天使シリーズ《聖徒の交わり(Communio Sanctorum)》。

 私の生み出したる新たな芸術作品───」

 

「名を、グレゴリオ」

 

「これを前にしては、名もなき神々の王女。

 神体の権能なき身では、フェルミの輝きすら通じはしない」

 

 大仰に。物々しく。

 すべては芝居に過ぎないとでも言うかのように。木切れの男は腕を振り上げて。

 

「さあ。今一度喝采を」

 

「故に私はこう叫ぶだろう」

 

「Omnia vincit Amor,at(最後に愛は勝つ、けれど)」

 

「Amantes, amentes(全ての愛は狂っている)!」

 

 

 

 

   ♰♰♰♰♰♰♰

 

 

 

 

 

 言葉はなかった。

 破壊の痕跡すら感じさせず、ただ、静寂のみが支配していた。

 やがて、小さく漏れ出すように声ならぬ声が響いた。

 

 くつくつと、捻り出すような嗤い。

 それはただ暗鬱なばかりで、肯定も否定も、互いを揶揄する調子すらも含まれてはいなかった。

 例えるなら暗くて深い沼の底、滾々と湧き出す水のような、ただただ空虚で無意味なもの。

 単なる"嗤い"そのものだった。

 

「……そうだ」

 

 不意に、嗤いが止まった。

 

「私は何者でもない。夜永カノンですらない。

 彼女の形と記憶を与えられたロア(虚構)に過ぎない」

 

 言葉と共に、鳴動するものがある。

 指が、手先が、足先が。肉体の末端から影へと解け、形を変えていく。

 

「私だ。私こそがロアであり、彼女のミネシス(複製)だった。

 人の形をしながら人ではなく。

 夢を語りながら意思すら持たず。

 最初に与えられた衝動のままに動くだけの屍に過ぎない」

 

 変容は肘膝の大関節にまで及び、周囲の暗闇と同化させていく。

 急激な変化に伴う激痛が全身を支配するけれど、どうということはない。

 

「それでも私は夢を叶える!

 偽物だろうと、最初から全部嘘だったとしても!

 私には、それしか残されていないんだから───!」

 

 振り払うように動かした手は、今や手の形をしていない。

 黒い闇と化した手は、顔を覆うこともできない。

 そして、流れ落ちるものがある。

 意志とは関係なく。変容とも関係なく。

 つぅ、と。頬を伝って流れ落ちる赤色。

 

「……泣いているのですか」

「泣く? 何を馬鹿な。人を喰らう怪談は涙を流さない」

 

 言葉とは裏腹に。

 眼下を伝う血涙は止めどなく。

 

「今この時、私はロア(偽物)であることを受け入れよう!

 私はテクスト(偽物)、私はミネシス(偽物)。私は嘆きの果てに首を括った亡霊である!」

 

 狂乱したようにかつて少女だった怪物は笑う。それは哄笑に近い、自虐の嗤いだった。

 死する存在、総てが虚構である自分自身を唾棄する狂的な笑み。

 自分すら否定して紡がれる言葉は瘴気じみて、その通りに彼女の肉体は過半が闇に溶けていた。

 

 対するアリスは、無言。

 怒りはなく。

 悲しみもなく。

 機械のような目で見つめるばかり。

 

「……これで最後です。ロアを名乗るあなた、あなたはどうしてそうするのですか」

「言うまでもない! 私は夢を叶えるため、あの子を殺して舞台に立ち、そして───!」

 

 

 

 

『いつか、この日誌と共に私の作った楽譜を見つけてくれる人が現れることを祈って』

 

 

 

 

 

 息を呑む気配があった。

 忘我に近い衝撃を受けながら自らの行いを振り返る、息遣い。

 次いで、静かな納得の言葉があった。そうか、と。

 

「……そっか。私は」

 

 闇が膨張する。

 影が急速に膨れ上がっていく。

 四肢も胴体も黒に溶けて。最後に残った顔は、呆然と目を見開いて。

 

「私は、この存在であるより前に。

 最初から、全部間違ってたんだ」

 

 言葉の直後───

 蠢く影が、少女のすべてを覆った。

 

 膨れ上がった影は、ひとつの形に収束して。

 酷く歪んで不気味に蠢く。

 茫洋と浮かび上がるその表皮の色は、凝固した血液にも似て。

 

 戯画化された人の輪郭。

 揺らめく炎にも似た顔面。

 光背を模すも聖性の欠片も見当たらぬオブジェ。

 指揮棒めいてタクトを振るう様は、奏でる音に全てを捧げた殉教者にも似て。

 

 ───怪物。

 ───正真正銘の。これは人間ではない。

 

 アリス以外に見る者があれば。

 およそ確実に、精神が硬直しているだろう。

 理屈すら超えてその肉体を震わせただろう。

 

 見る者に恐怖をもたらす。

 この存在は、根源的なそれを備えているから。

 四肢も、視線さえも動かすことを許さない。

 

 グレゴリオ。

 それは、人の手で造り出された最も新しき天使の名。

 

 破壊。死。恐怖。叫び。

 それら総てがこの異形の根源を構成する。

 裁きをもたらす天使のように。総てを、断罪する。

 

 何が、罪か。

 それを決める者はいない。高みにて睥睨する者は消えた。

 ここにいるのは、人になれぬ異形とそれを見つめる者だけ。

 

 だから、アリスはこう言うのだ。

 

「───それでも」

 

 恐れもなく彼方を見据える。

 巨大異形はタクトを振るう。彼の者に従属する存在が、兵団のように現出する。

 聖歌を口ずさむ影の異形。白きものが破壊の音に喉を震わせる。

 

 それでも。

 

「それでもあなたが、自分では止められないというのなら。私は何度でも言いましょう。

 哀絶なる者、今は遠き夜永カノン。

 その妄念、愚念、あなたを突き動かす執着の残骸の悉くを今、ここで」

 

 そして。

 少女の瞳、輝いて。

 

「───食い止める」

 

 ───もう一度、左手を前へ。

 

 

 

 

 

   ♰♰♰♰♰♰♰

 

 

 

 

 

《現在》

 

 

 

 ───音を奏でる。今日も。

 ───それだけが、私のできる全て。あの人たちに報いることができる、ひとつだけのこと。

 

 その旋律は変わらない。

 今まで練習した通りに。何度も、何度も繰り返したそのままに。

 緊張なんてしている暇はない。私は私にできることをやるだけだ。

 

 やることは何も変わらない。何十回、何百回としてきたことの繰り返し。

 でも、ひとつだけ違うのは。

 音に込めた、想いひとつ。

 

「──────」

 

 私は歌う。置き去られた冊子に書かれた通りの、あの人が紡いだ言葉を。

 私は歌う。「冴えない日々が訪れても、未知なる未来を信じて」と。

 

 その未来さえ失ってしまえば人はどうなるか。歌は何も教えてはくれない。

 けれど、いいやだからこそ。

 

「──────」

 

 届けよう。拙くとも、完璧とは程遠くても。

 夢を持てなかった私の代わりに。

 大袈裟な「ありがとう」の言葉の代わりに。

 

 夜永カノンさん。

 私は、あなたを見つけることができたよ。

 あなたの代わりになんて、思い上がったことは言えないけれど。あなたの想いを連れていくよ。

 

 ありがとう。あなたの想いを残してくれて。

 ありがとう。私に夢の代わりを与えてくれて。

 

 先生も。そして、私にこの曲を歌うことを許してくれたあなたも。

 どこかで聞いてくれているなら、嬉しいな。

 

 

 

 

 

   ♰♰♰♰♰♰♰

 

 

 

 

 

 全てが両断されていた。

 

 ホールにも、その壁にも、あらゆる遮蔽物も、暗闇すらそれは斬っていない。

 けれど、確かに、それは斬るべきものを両断していた。

 

 それは、剣。

 それは、刃。

 それは、死。

 

 アリスの左手から延びる、全長八〇〇メートルにも及ぶ見えざる刃。

 いいや。いいや。

 見える。それは、確かに見えていた。

 

 それは、眩く輝く光の剣。

 それは、星々の光を束ねた《ティシュトリアの星剣》

 あらゆる幻想を斬滅する、不死殺しの光剣。

 

 解析、模倣。

 ニュートリノ粒子めいて万物をすり抜けるフェルミの輝きは、その性質を利用して接触対象の特性を看破する。

 時間こそ要し、本来不要な戦闘さえも強いたものの───

 付き従う無数の聖歌隊を、拡大変容したロアの天使を、悉く斬り滅ぼし。

 存在の最奥、中核となる等身大の人型さえも切り裂いて。

 

 ───ああ。

 

 ああ、痛い。とても、とても痛い。

 得た力も外装も失って、力なく倒れ伏すのが分かる。

 肉体が崩壊していくのも、分かる。

 わたし、死ぬんだね。

 わたし、それじゃあ、今まで生きていたのかな?

 

 もう何も見えない。

 何も聞こえない。

 

 あれだけ眩しかった光さえ、目に映ることはなく。

 あれだけ聞きたかった旋律も歓声も、最初から聞こえてなんかいなかった。

 

 感覚が無くなっていく。体が端からほどけていくのが分かる。

 暗闇以外を映さない視界の中で、意識が本当の暗闇の中に落ちていく。

 

 それでも。

 感じるものがあった。それは、私の頬に触れる指の感触。

 硬くて冷たい、刃の指。

 なんだろう。あの子の指じゃないよね。だってあの子はもっと柔らかくて、綺麗だったもの。

 でも、今のわたしにはお似合いだ。

 最初から全部間違えていたわたしは、硬くて冷たい鋼と共に眠るんだろう。

 

 ごめんね。

 今更言っても遅いけど。それでも、ごめんなさい。

 でも、わたし、がんばったの。

 夢を叶えたかったの。

 願ったのはそれだけで、迷惑なんてかけたくなかったの。

 

 信じて───

 

 自分だけ良ければいいって、思っていたわけじゃない。

 夢を叶えるためなら何を犠牲にしてもいいなんて、考えてたわけじゃない。

 

 わたし、本当は───誰も、殺したくなんて───

 

 

 

◆

 

 

 

「……先生」

 

 消えていた。

 あれだけの暴威を振るっていたはずのロアは、塵となって消滅した。

 最後に人の形を取り戻して。優れた聴覚センサーを持つアリスでさえ聞き取れぬ何かを呟いて。

 

 消えていた。

 彼が持つ、刃の右手に切り裂かれて。

 

「……どうして、ここにいるんですか」

「……どうしてかな」

 

 言葉は重かった。

 彼は、自虐すら声に滲ませてはいなかった。

 ギー。新議事堂にいるはずの彼は、しかしアリスの目の前に立っている。

 その右手を刃に変じさせて。止めを刺そうとしたアリスに先んじて、彼女を切り裂いて。

 

「僕に言えることは何もない。彼女が何者であるかも知らないし、君は立派に役目を果たした」

 

 けれど。

 

「けど、僕は……君に背負わせたくはなかったんだ」

「……」

「人を死なせた悔恨など、君が感じる必要はない」

 

 それだけを言い残して、彼は背を向け歩き出す。

 そこには悔恨も、慙愧も、人ならぬ者への蔑みも、事を成した誇らしささえなかった。

 ただ、十年も同じことを繰り返してきたかのように。

 本当に、ただ、それだけのことでしかないのだと。黙した姿は何より雄弁に語っていた。

 

 

 

 

 

   ♰♰♰♰♰♰♰

 

 

 

 

 

「こんにちは、ギー先生」

 

「あなたは、どうか」

 

「どうか、自分の果たすべきことを果たしてください」

 

 

 

 

 

   ♰♰♰♰♰♰♰

 

 

 

 

 

 ───視界の端で空色の少女が笑っている。

 

「……」

 

 パーティはもう始まろうとしていた。

 今夜の主役である少女は、星空を思わせるシックなドレスを身に纏ってこちらに歩いてくる。

 この数日で見慣れた姿。音楽室で毎夜会っていた少女。

 優美に着飾った彼女は、真紅のカーペットをゆっくりと進んでいる。

 

「……先生?」

 

 隣のアコが訝しむように問う。

 答えることなく、ギーは群衆から抜け出していた。

 

 少女と対面する。舞台へ上がろうとしていた、空崎ヒナと。

 周囲がどよめくのが分かる。アコも、アツコも、檀上から見下ろす万魔殿の議長さえも。

 

 ヒナは一瞬驚いた顔をして。でも、何か声を出すことはなかった。

 何かを言う必要はなかった。

 長々と語ることなど、自分たちの間には何もなかったから。

 

 ギーは、たった一言だけを言い残す。

 

「……頑張れ」

 

 それだけを言って、去っていく。

 すれ違いに、ヒナの隣をすり抜けて。

 アコが、マコトが、何かを叫んでいるのが分かった。けど、それはもうヒナの耳には入らない。

 

 その一言だけで良かった。

 だから、自分が返す言葉だって決まっていた。

 

「うん、頑張るよ」

 

 そうして、振り向くことなく歩いていく。

 果たすべきことを果たすために。心に決めたことをやり遂げるために。

 

 

 

◆

 

 

 

 そして全ては終わりを迎えた。

 

 耳に届く拍手の音。鳴り止まない歓声。

 ほんの少ししか演奏していないはずなのに。全力で走り抜けた後のような虚脱感が体に圧し掛かる。

 

 私───

 ちゃんとできただろうか。

 上手くやれただろうか。

 カノンさんに顔向けはできるだろうか。

 

「……あ」

 

 そうだ。

 先生は出ていってしまったけれど。

 あの人は、ここに来ているのかな。

 来ているといいな。

 あの人にも、私の演奏を聞いてほしかったから。

 

 でも、いい。

 例え来ていなくても。聞いてくれなくても。

 だって、きっと。

 

「きっと、また会えるよね」

 

 そう思う。

 そう信じる。だって歌は無くならないもの。

 

 それで、あなたが少しでも喜んでくれたなら。私も嬉しい。

 

 

 

 

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