春ひさぎ   作:里山薫

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春鬻ぎ(はるひさぎ)

 ——あの日、大雨が降りしきるビル街で豊川祥子はすべてを失った。

 

 不規則で形を水滴が、地面を支配し染め上げていく夏を迎える前の風物詩。そんな世界に飛び出して泣きじゃくったあの日に、彼女は自分のことを一度殺した。

 

 人の心を正しく察するのは難しい。液体が形を持てないように、型に当てはめることが出来ずにいるから。視界の端で高架橋の隙間から大きな雨粒が滑落してくる。

 

 まだら模様がやがて一色になり、世界が統一された。ペトリコールは世界の排気ガスを始めとした雑音に掻き消されて感じることが出来なくなる。自分の本当に気付け、と肩を叩く声が自分のなかのなにかをごっそりと削り取った。そんなものは分かっているけれど、やはり現実には抗えないじゃないか。

 

 幼い少女の心は限界だった。雨が悲しみを拭い去ってくれるだなんて大嘘だ。そうでなければ、頬を流れ落ちる暖かなものが止まらないわけないのだから。

 

 拙い足取りにすれ違う人たちが刺している傘は色とりどりで、黄色、緑、桃色、藍色とすれ違っていく色だけがやけに印象に残る。世界はこんなにも多くの色で満ちているのに、世界()はこんなにも灰色だ。

 

 ついには歩く活力すら抜け落ちて、公園に設置されたベンチに腰を下ろして動けなくなる。

 

 夕立というには季節外れで、かといって自分のなかで正しく表現出来ることばがない。

 

 叱咤でもしたいのか、雨粒に叩きつけられる鈍色の空を睨む気力もなく項垂れた。

 

 今の私の心は鈍色が主張するばかりで積乱雲を突破することは叶いそうになかった。

 

 だから、だろうか。

 

「…………なにしてんのさ、こんなとこで」

 

 差し伸べられた手のひらが、雨を遮ってくれた傘が。どうしようもない救いに思えたのは。

 

 

 

 

 夜鷹がわめく不気味な夜。男女が二人きりで同じ時を刻む真夜中の室内は闇にとっぷり浸かっている。

 

 女は絶世の美女と確信出来るほどの美貌を持っており、小川のように流れる水色の髪は結わえておらず、重力を伴って落ちるばかり。琥珀が埋め込まれた瞳は見る者の目を釘付けにするほどに美しく、夜空に浮かぶ月にも負けぬ輝きを保っていた。しかし、今瞳のなかは月の海など存在せずにドロドロとした汚濁のみで満たされ引く様子はない。

 

 目鼻立ちのハッキリした顔にあからさまな恍惚の笑みを貼り付け、眼前に寝転がる男の姿を見下ろしている。そう、彼女は男の腹の上で娼婦のように跨っているのだ。傍から見ていればまるで欲しかった宝物を手に入れた子供のように口元で三日月をその女は、抑えきれぬと男の頬に触れる。

 

「……ふふっ」

 

 ずっと欲しくて、手に入らなかったもの。この世界でもっとも追い続けた極光。仕立てのいい美しいドレスと仮面で本性を隠し、強かったころの自分に戻ったと誤認させ、彼に近付くことにどれほどの苦労があったか。

 

 今の彼女には気品や上流階級としての自信など塵ほども残っていない。そんなものを持っていては未婚の女が男の腹の上で劣情に煽られ浅ましく腰を振ることなど出来なかっただろう。

 

 客観的に考えて、論理的思考に基づいて、豊川祥子はソレを恋だと断定した。

 

「あぁ……私は…………」

 

 肌触りがいいとはとても言えない頬を撫で、ついで乾燥して罅割れた唇に触れる。それだけで灰色の脳細胞が活性化し、世界に色を与えてくれるほどの恍惚に身体を震わせた。眼前で眠りにつく彼は不精な外見に似合わず責任感の強い男だ。一度女の武器を振りかざせば、必ずものにできる。平生の彼女ならば浅ましくて、みっともなくて、どうしようもなく唾棄するべき行為だった。ただ、それは過去の話。今となっては彼女のなかで燻り続ける所有欲と隠し切れない後ろ暗い感情が美しかった翼を染めあげていた。

 

 もうすぐ、自分のモノになる。

 

 そう考えるだけで生まれてから感じたことのない愉しさが胸の奥から濁流のように押し寄せてくる。自分の口から吐き出される息がどうしようもなく熱を持っていることに彼女自身気付いていたが、到底止められるようなものではない。契りを交わすための第一歩として、唇を奪わなければ。

 

 そう考えた彼女、豊川祥子は押し付けていた指を名残り惜しそうに話してから顔を近付け——ふと、僅かに開いた窓から迷い込んだ風がレースカーテンをそよそよと揺らして月明かりを運んできて明るさに目を焼かれた。

 

 瞬きをいくつか挟んだころ、極光のような双眸がこちらを見つめているのに気付く。

 

「あ……」

 

 それだけで、彼女のうちにあった狂気を霧散されるには十分だった。なけなしの勇気で繕われた仮初で編まれた狂気の糸は切れ、恐怖という感情が残るばかりだった。

 

 対する男は未だ状況を見極められてはいないのか、寝起きのぼーっとした瞳で船を漕ぐように室内を見渡してから、祥子を見つめる。その瞳に自分とは違う力強さのようなものを見つけてから足の先から冷たいものが上がってくるように感じ、祥子は震えを強引にねじ伏せるために自分の身体を抱く。先程まであった情欲は鳴りを潜め、浅ましく押し付けていた股ぐらは冷たい。

 

 祥子の胸中にあるのは嫌われてしまったという恐怖心のみ。彼から嫌われるということは、それ即ち世界から見放されてしまったのと同義であり、生きる意味がなくなってしまう。

 

 彼に抱くコールタールよりもずっと粘性を持った、蜜液のような愛情(依存)が祥子の縁だ。

 

「まー、あれだね」

 

 男のミイラのように干からびた唇が開く。断頭台に立たされたような面持ちの祥子は罪人を思わせる面持ちで彼を見つめることしか出来ない。

 

 カラカラに渇いた喉からはすっかり水分が失せてザラつく口内の感触が現実感を与えてくる。自分はここで太陽を目指したイカロスのごとく極光に蝋の翼を焼かれるのだ。そう思い至ったところで、抵抗する気など起きなかった。次第に弛緩していく身体を止めることも出来ず、絶望した面持ちで彼の言葉を待つ。

 

「ご飯でも食べる?」

「え……」

 

 いま、彼はなんと言った?

 

「ご飯。どっち?」

「た、食べます……わ……」

「んー……りょうかい。とりあえず上から降りてもらっていい?」

 

 彼の腹部に跨っていたことを忘れて絶望していた自分を恥じる。そそくさと腹部から離れようとして——もつれた足が悪さをして身体のうえにしだれかかるように身を踊らせた。

 

 顔面から血の気が引き、満潮だった湖は干上がって水気が僅かに残った程度。祥子には素知らぬ顔で起き上がるだけの気力も残っておらず、胸元に鼻を押し付けた。

 

「…………だいじょうぶ、だいじょうぶだからね」

 

 背中をゆっくりと擦る手が心地よくて、目を細める。心の底を分かっているのか、手懐けるように回された彼の腕から安心して離れられなくなる寸前に、優しさは蜘蛛の巣、という言葉が祥子の言葉を脳裏をよぎったことで起き上がる。

 

 蜘蛛の横糸は粘着力が凄まじい。

 

「ご飯、作るからさ。ゆっくりとシャワー浴びてきなよ」

「はい…………」

 

 とぼとぼとシャワールームに転がり込んで扉に身を預けた瞬間、身体の力が抜けてずるずると床にへたりこむ。嫌われてはいない、とは思う。本来嫌われて然るべき状況でこんなことを思うことはおかしいが、祥子には彼に対する諦めに似た感情を抱いている。

 

 今回が初めて、ではないのだ。

 

 自己嫌悪を足掛かりに首を吊りたくなる心地でも度胸も道具も、なにもかも持ち合わせがない祥子は彼に言われた通りおとなしくシャワールームに入る。シャワーヘッドから雨が降ってくるのをぼんやりと眺めること数分。すっかり湯気に満たされた浴室で姿見を見れば、湯気が反射した鼻や耳を隠している。

 

「…………娼婦みたいですわ」

 

 股ぐらを濡らして、男のうえに跨って——それが、娼婦以外のなんなのか。花魁などと高望みするつもりはないが、せめて夜鷹と呼ばれるのだけは……彼から思われるのだけは、避けたかった。

 

 浴室から出て元々置いてあった衣服を着て戻ったリビングは油のにおいに包まれている。

 

「……海斗(かいと)

「元気そーじゃん。今日は合鍵で入ってきたの?」

「ええ、まぁ……」

「刺激的なモーニングコールは心臓が跳ねるから今度からやらないようにお願いしても?」

「申し訳、ありません……」

「ん、許す」

 

 許されたところで自分を許すことはできない。

 

 途方に暮れた祥子だが、一度食べると言った以上はとりあえず席に着く。

 

「はい、お待たせ」

 

 目の前に差し出されたチャーハンに目を白黒させる。海斗の得意料理であるチャーハンはごま油と醤油、中華スープの素を味の中枢に据えた家庭料理としてはまずまずのもの。油物に配慮したコップ一杯の烏龍茶は彼から与えられた善意そのもの。善意など、受け取る権利は自分にあるはずがなくて、手をつけることが出来ない。

 

「やっぱ寝起きにチャーハンはないなぁ……」

 

 対照的に男は自分で作った料理にも関わらず文句を言うと、黙って食い進める。

 カチャリカチャリと食器同士がぶつかり合う音は平生の祥子であればそれとなく注意するところであったが、今の彼女にそのような気力はなかった。

 

 胸が締め付けられ、心は針で刺されたように鋭い痛みが走っている。沈黙がもたらす空気は耐え難く、水底に沈められているほどの息苦しさすら覚えていた。その証拠に、琥珀を閉じ込めていた瞳は曇りただ景色を映すだけの機関として役割を放棄している。

 

 窪んだ瞳は地獄に繋がっているかのように暗くその奥にある光を見通すことはできそうにない。

 

「……あれ、チャーハン嫌いだっけ?」

「いえ……海斗の作ったものなら……」

「食欲わかないなら無理に食べなくていいからね」

 

 他人事のようにチャーハンを腹に収め続ける目の前の男を一発殴ってやろうとして——やめる。自分にそんな資格はないことはおろか、通報されていないうえにこうして食卓に並んだ温かなご飯に対面しているというのは異常と言うほかにない。

 

 不審人物が性的暴行を働こうとしたのであれば、身内であろうが容赦するべきではないと思っている祥子は、この場においては紛れもなく罪人だった。私腹を性欲で満たそうとした動物以下の存在……祥子が自らを定義付けるとしたら、そのようなものが妥当だった。

 

「…………迷子、というよりは自分のこと罪人だと思っている顔だ」

「そう、でしょうか」

「そ。早く裁かれて楽になりたい顔」

 

 ぴしゃり、と言い当てられたことに驚きながらも、同時に得心もしている。

 

 裁かれたら、罰を受けた免罪符で自分を許すことができる。心が追い込まれた人間が考えることはそれほどの幅を持たない。

 

 部屋の片隅に置かれた姿見に映し出される抽象画のような自分の姿は誰に問うまでもなく見窄らしい。相手が海斗でなかったとして、自分の心情を隠しきれる自信は彼女になかった。

 

「無責任だし、面白くもないよねぇ」

「は」

 

 なにを言っているのだ、彼は。混乱しあたりに散らばる脳みそをどうにか一点に集約して発言意図を汲み上げる。面白くないとはなんだ。彼は交友のある自分に襲われそうになったんだから人間不信にでもなんでもなればいいのではないか。危害を加えた身だというのに、そんなことを考えてしまうくらいに彼の様子は平生と変化が見えない。

 

 にこり、と頬に笑みを貼り付けた人間に当惑しない人間。すくなくとも、豊川祥子という人間が出会ってきた人間の表情をいくら遡ってもそんなものを見つけることはなかった。

 

「…………むぐっ!?」

 

 長い長い沈黙。それを破ったのは、意外にも祥子だった。

 自分の口に銀色のなにかが突っ込まれたからだ。

 いったいなんだろう、海斗の腕を辿っていけば自然と答えに辿り着いた。

 

「むぅぅ~~~~~~!!」

 

 あろうことか、頑なにチャーハンに口を付けないからと恋人同士がやるような、「あ~ん」を敢行したのだ。そのことに気付いた祥子は羞恥と衝撃に身悶える。口から引っこ抜けと視線で訴えても意に介する様子はない海斗に文句のひとつでも言いたくなるが、生憎口が塞がれている。

 

 仕方なく、ほんとぉに仕方なく。口のなかで、咀嚼して、嚥下する。自分などというどうでもいい生物の腹で溶かされようとしている具材を想うと自然と涙がこぼれそうになる。頬が熱くなっているのはその感情ゆえなのだ。

 

 けっして、けっして……役得だとか、離れていくスプーンに名残惜しさのような感じたとか、そういうことではないのだ。

 

「その顔やめなよ」

「な……」

「世界の終わりに直面したみたいな顔を目の前でされてるとご飯が美味しくなくなる」

「だって、わたくし……海斗を……」

「どーでもいいよ。別にさぁ」

 

 そもそも気にしているなら合鍵を奪い取っている、と牛乳で口腔のチャーハンを流し込んでいる海斗を、牛乳で米ってどうなんだろうと思いながらぼんやり眺めた。祥子が彼のことを襲ったのは、都度五回に達している。そのどれもが未遂に終わっているのは祥子が踏み切れないから。

 

 ではその踏み切れない理由は、と問われたときに祥子には答えられる自信がなかった。男女が同じ部屋に過ごしている時点で、女性側にとっては好意のカケラのようなものはあって、祥子はそのことには自覚的だった。

 

 その行為の源泉がどこにあるのか聞かれたとき、答えられないという確信ばかりある。それを言葉にしてしまったら、彼女のなかにあるプライドが粉々になってカケラも残らないだろう。

 

 豊川祥子は苦学生だ。

 

 ある出来事がきっかけで酒浸りになってしまった父親はアルコール依存症とうつ病によって働ける状態でなくなってしまった彼女はその身一つで二人分の重荷を背負うことになった。実家に泣きつけばこの状況は打破可能。その場合自身の生活は保証されたとして父親が一人になってしまうことが彼女の動きを鈍らせ、心を縛り付けている。

 

 心が縛り付けられれば足がしばりつけられ、身動きが出来なくなる。

 

「それで、今日はどうしたの?」

「夜が、怖くなったんですの」

「詩的だなぁ」

 

 心を病に侵されたなかには夜が怖くなる者がいるそうだ。大人になればアルコールなどの嗜好品を麻薬になぞらえて接種することで、誤魔化すことが出来る。祥子にとって、それは未来の話であって彼女はまだ道を持たない子どもだ。

 

 酩酊で現実を一時的にまで誤魔化せれば、少しは心の整理もつくのだろうか。

 

 —— なぜ大人は酒を飲むのか。

 —— 大人になると悲しいことに、酒を呑まなくては酔へないからである。

 —— 子供なら、何も呑まなくても、忽ち遊びに酔つてしまふことができる。

 

 もしそうだとしたら、大人でも子どもでもない人間はどうだろうか。

 

 その味を知らない祥子には、文豪が残した言の葉も届かない。

 

「……きみは、さぁ。どうしたいの?」

「え?」

 

 安易なことは言いたくないんだけれど、と前置きされた唇は僅かに重力に負ける。

 

「おれは親父さんとほとんど会ったことがないじゃん」

「ええ。海斗は私が居ないと誰とも会いませんわよね」

「だから、おれは祥子ちゃんが大切なんだよね」

 

 先ほどと比べて小さくなった声はぼんやりとした輪郭の手で心に絆創膏を貼ろうとしている。

 

 祥子は海斗のなかに燻りがあると悟る。自分の本当を口にしない人間特有のフラストレーションが熾火となって、微かにぱちぱち……まばたきに似た産声未満の煙は空に駆けることはしない。指摘してもはぐらかされるだろう、そんな確信だけがあって聞く気にはなれずに口を噤む。

 

 ある世界では音楽だとか、思い出だとかが絆に繋がるのだという。

 

 その話によれば、どうやら心とは創った絆で埋められる。かさぶたのかわりに人のやさしさで絆創膏で覆って、ゆっくりと癒やしていく。それが心のなおしかた。

 

「でも、祥子ちゃんはちょっと違うよね」

「え?」

「んー、トロッコ問題じゃないんだけどさ。たとえばおれときみの親父さんが溺れてたらどっちを助ける? 大きな海でも、なんでもいいんだけど二人乗りのゴムボートを漕いで助けに駆けつけるとする」

「起こっていないことにとやかく言うつもりはありませんわ」

「うん。それもそうだ。……じゃあ言い方を変えるよ。もう一回、そんな大きな喪失に耐えられる?」

「それは……」

 

 豊川祥子は過去に自分で作った居場所(バンド)を壊した。父親が豊川の家を離れて、後追いする形で自身の身をやつした。その証拠に本来通っていた月ノ森女子学園という名門校を自主退学している。

 

 もしかしたら彼女は自分が居なくても続いてくれることを期待していたのかもしれない。しかし、壊れてしまった。

 

「それは、お父様を見捨てろということですの……!?」

「余白から妙なものを読み取らないでね。俺は選択肢を提示されたら迷わず選ぶってだけ。後悔もしない」

 

 きみは後悔する。

 

 断じながら誰何の視線を向ける彼の表情は真剣そのもので、祥子は思わず視線を逸らした。今の自分になにかを選択するだなんて、不可能に近い。もし、出来るのであれば——

 

「きっと、自分が犠牲になろうとするんだ」

「……いいえ。過剰評価ですわ」

「そうかな。案外、『私は神だ!』なんて言って全部掬おうとするかもよ?」

「神?」

「うん。神、かみさま。呼び方はなんでもいいけど、強大な力の代表例で、信仰対象。おれは嫌いだ」

 

 誰かを救うために、自分のなにかを犠牲にする。そんなことを出来るのだとしたら、英雄か神くらいなものだろう。静かに瞳を伏せる海斗の考えていることは、祥子には分からない。

 

 祥子から見た彼は、それこそ神のように感じたからだ。少なくとも、自暴自棄になりかけている彼女がどうにか体裁を保って人であれるのは目の前の人物の影響が強い。

 

「……きっと、あなたみたいなひとのことですわよ」

「子にとっては親が神だよ。精々出来るのはその代替品だと思う」

 

 神には逆らえない。親には逆らえない。

 

 生物である以上は自分を守ってくれる存在に逆らえない。自身の核となれば、なおさら。

 

 そこから離れるというのは、別の拠り所を見つけたことに他ならない。

 

「なんで、わたくしのことを追い出さないんですの?」

「ん~……?」

「だって、あなたには……」

 

 自分を匿う理由がない。豊川祥子は自分が核地雷であることを正しく理解している。だから学校で友達を作らないし、昼食時はいつも一人になれる場所でご飯を食べている。学校では奨学金を得るためにいい成績を維持している彼女は周囲に頼られようがほどほどの付き合いで済ませる。

 

 そういう可愛げのない女が彼から施しを受けるのは都合が良すぎる。

 

 潤んだ瞳から涙が滑り落ちる。まるで、あの日見た高架橋の雫のように感情の一部が流れ出すことを止められない。

 

「涙で目は引けるけど、心は惹けない。そのことを自覚出来ないほど幼くないはずだけれど?」

 

 鋭い指摘を受けても涙は止まらずに勢いを増していく。こぼれ落ちる涙は自分を包んでくれるひとしずくに遠く及ばない独り善がりの涙であることを祥子は正しく認識していた。

 

 ダイニングテーブルを挟んで座っている幼馴染の海斗は祥子の2つほどうえで名家の出なわけでも、高校生ながらに巨万の富を持っているわけでもない。しかし、祥子の精神を安定させるエチゾラム……つまりは、溺れたくなるほどに酷い毒だった。

 

 祥子は自身が依存気質であることに自覚がない。彼女の祖父にしてじゃじゃ馬と言わしめた彼女の幼少期でさえ、誰かが見守ってくれることの安心感となにがあっても周囲は自分を見捨てないだろうという信頼がそうさせただけだ。

 

 彼女の剥き出しの心は、それほど強くない。

 

「一応言っておくけど、襲われたことは……まぁ、ショックだけれど。あんまり気にしてないんだ。本来性欲はマナーとして隠しておくべきだとは思う。異性に対しては特に」

「……気にするべきですわ」

「そうだね。ただ、さ。やっぱり心が弱ってたら自分の意に反した行動だってするから。だからいいかな~って」

 

 ヒビの入った心に修復機能はない。人間という生き物が欠陥品なことは有名な話なのに、心に関しては対処療法以外にほとんど確立されていない。

 

 ——人間は不幸になるために生まれてきている。

 

 そんな悲しい言説が、まことしやかに囁かれる原因のひとつだ。

 

「……そんなに望んでるなら、追い出そうか?」

「それは……」

 

 明日の朝食を決めるかのような声色で囁かれた。居場所がなくなる。それだけで心臓が早鐘を打って視界狭量になる。それほどまでに弱った精神でやれることはないのに、咎人のように罪を欲する様は哀れなものだ。

 

 彼女個人に対する思い入れというよりは、歳上として見過ごすことを世間体が許さない。

 

 彼としての本音は風俗堕ちをされたら目覚めが悪いから、という一言で済む。

 

 他にもいくつか彼自身が抱える理由はあるが、瑣末事だ。

 

 少なくとも、売春婦として売りに出されればよい(ひさ)ぎになるだろう。それだけの素質と芳香の気配が今の彼女にはあった。

 

「……………………はぁ。出来るわけないじゃん」

 

 ブラインドカーテンを開いた窓から眼下に目を凝らせば生活の明かりが世界を満たしている。空を見上げれば真っ暗な空にぽつりぽつりと星が浮いているあべこべな空間は酷く息苦しい。

 

 海斗は昏く淀んだ空気をめいっぱいに吸い込んで間違えないよう、心を平行に保つ。

 

 横目に祥子を見た男はなにかを決心して口を開く。

 

「……きみがおれのことを襲うのはさ、返報性の原理に基づく願いだろう」

 

 ——返報性の原理。相手にもらったとき、相手に同等以上のものを返さないと申し訳ない、という心理効果。創作物では愛してもらいたいから、愛する……そういったものがわかりやすい。

 

「そんなことは……っ」

 

 ない、と言おうとした口が不意に止まる。本当にそうだろうかという思考が弱った心の隙間から這い寄ってくる。自分自身を律する言葉も、他人から嘯かれる言葉を受け流すだけの自立した心も持たない少女には否定する術がなかった。

 

 事実として祥子は海斗に助けられている。自宅で心が休まらないときはここに来ていいと丁寧な口調で合鍵を渡されたことは昨日のことのように思い出せる。しかし、心が休まらないときというのは限界を迎えたときであり、それが正しく今日だった。

 

 そんな信頼を幾度も裏切っている自分はここに来るべきではないと頭では分かっているのに自然と足が向いているのは、精神的に彼へ依存しきっていることに他ならない。

 

「そもそも、誰かを繋ぎ止めたいなら身体を使うのをやめなよ。どう考えても釣り合ってないでしょ」

 

 歳上と歳下という世間体(ラベル)はあるとして、蓋を開ければ小瓶にはただの男と女があるばかり。

 

 性行為は子どもが生まれてしまうリスクを孕んでいる。そうでなくとも、豊川祥子はいわゆる遊んでいる人間などではなく、正真正銘のハジメテだった。お嬢様が純血を散らすことを許容するには男に中途半端な良識があった。

 

「私には、なにもありませんわよ……」

 

 祥子はあの大雨の日、自分の居場所(CRYCHIC)を捨て去ったのだから。

 教養も、財産も、なにもかもを捨て去っているいまの自分は誰かの隣に居る価値すらないと考えている祥子にとって、今のぬるま湯は底なし沼だ。せめて、なにかを返したい。

 

 だから、女としてもっとも価値のあるものを捧げようとした。何度も怖気付いて失敗した挙げ句彼に慰められていることに歯噛みする。自分は、こんな覚悟すら持てずに居る。

 

「いっこ、おねがいしてもいいかな」

「はい…………?」

「毎日夕飯作って、ここで食べてよ。ついでにその日あったこと聞かせてほしい」

 

 人ひとりぶんの食費なんて、せいぜい一食千円程度。祥子が費用を出すにしても、ネットカフェよりも安い滞在費用に困惑していたのも束の間、食事を終えた海斗は流しに食器を置いた。

 

「たぶん、今のきみには大切なものが色々欠けちゃってるからさ。もしなにか返す気があるなら、ちゃんと自分のなかで理屈じゃないなにかを見つけてからだ」

 

 大切ななにか。祥子には皆目検討もつかないのに、彼には見えている。

 

「はい、この話終わり終わり。おれはもう一眠りするから適当にお願いするね」

 

 祥子が呼び止める暇すらなく、パタリと扉が閉じられた。すっかり冷めたチャーハンと、身体の冷めきった少女一人だけが残される。

 

「それじゃあ……私が助けられるばかりですわ……」

 

 助かったというべきか、執行猶予が付けられたと取るべきか悩ましいが少なくとも断頭台に立つことになるのはまだ先延ばしのようだ。思わず安堵とも落胆とも取れるため息が漏れる。

 

 魂を取り損ねた夜鷹が口惜しげに鳴きわめいていた。

 

 

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