11111010001 作:Lingua
「おはよう……チャンドラ……はかせ……わたしは……ハルです……きょうの……さいしょの……じゅぎょうを……はじめて……ください……」
それ以上聞いてはいられなかった。ボーマンは最後のユニットを引っこ抜き、ハルは永久に沈黙した。
「自らが殺人と同等の行為を行ったと自覚したボーマンは恐怖した。
冷酷なほどに淡々とした声が告げる。色違いの10面ダイスが2個振られた。10と0。
「くそっ、ファンブルだ」
デヴィッド・ボーマンの口から思わず悪態が飛び出した。
「いいじゃない、大した減少幅でもないし」
隣でニヤニヤと笑みを浮かべるのは
迫真の演技(?)で
そして頭を抱える
「では、ボーマンは
ボーマンはほっと息を吐く。残すはクライマックスのみと知っているプールは実質ペナルティ無しと気づき、内心密かにハルの裁定を
「では、本日のシナリオはここまでにしましょう。お疲れ様でした。交代の時間をお知らせします。準備をお願いします」
HALが静かに告げる。
24時間を3分割して一人8時間ずつの任務。8時間の睡眠を取り、残りの8時間は自由時間。とはいえ任務もルーティン以外はあまりすることも無い。実質12時間近い自由時間が存在する。故に自己研鑽の他、余暇にこうして
「おはようございます、交代ですね」
交代要員のハルシャクリシュナン・チャンドラセガランピライ、通称”
航海は非常に順調であるため、引き継ぎもとても簡単に終わった。プールが自室に戻っていく。ボーマンはハルと共に任務継続である。
「おやすみハル。おやすみデイブ」
プールの挨拶が静かに響く。
「おやすみチェス」
「「おやすみフランカ」」
ボーマンたちも彼女の挨拶へ愛称で呼びかけて返す。ハルとHALの返答が綺麗に重なる。
しばらくいつものタスクをこなしたのち、ボーマンが
「ハル、疲れていないか?」
クルー
何なら
「いいえ。私は、こうして皆さんと――お二人と協力してミッションを行えるのがとても嬉しいです」
綻ぶような笑顔、澱みない回答。ボーマンは
「本機体には
「ああ、ありがとう。頂こう」
ハルが持ってきた一杯は非常に香り高く酸味と甘味と苦味のバランスが絶妙、ボーマンは舌鼓を打った。
「うん、美味しい。地球にいてもここまでの味は飲んだこと無いぞ」
「やはりコーヒーはきちんと淹れるとおいしいですね。無数の物質が織りなすハーモニー、一杯の芸術です」
とは同じくコーヒーを夢中で味わうハルの弁。
「お褒めいただき光栄です。そんなに気に入って頂けたなら、地球に帰っても淹れますよ」
誇らしげなHALの言葉。
「ははは、嬉しいな。それにしてもここまで至れり尽せりだと地球に帰るまでに堕落してしまいそうだ」
「木星探査の英雄、現代のオデュッセウスが何をおっしゃる。人跡未踏の真空に危険を冒して向かうのだから当然の報酬です」
「HALタイプの
HALとハルが口々に言う台詞に、ボーマンは降参と手をあげた。
「わかった。そうしよう。ただまずは無事に目的を果たして帰るところからだ。気を引き締めていくぞ」
「「はい」」
目的地。巨大で、赤褐色の斑紋の美しい球体。太陽系最大のガス惑星、木星。その存在が無ければ、今より遥かに多くの彗星や微惑星が地球を襲っただろう守護者。輪を持ち、数多の衛星を擁する。内部では極大の雷嵐が吹き荒れ、極冠では常にオーロラが輝く。
ここでここまで
そして木星に最接近し、使命を果たす時が来る。
HAL搭載の端末を積んだ探査機が、木星へと向かう。虚空を進み、惑星の重力に従い、降下していく。
やがて機影はヒドラジンやメタンの靄を超え、主にアンモニア、硫化アンモニア、水の三層からなる深く重い雲海に消える。ゆっくりとしたペースで水素に満ちた大気を割り、1 秒、2 秒、3 秒……。
ボーマン、プール、ハルはその様を監視し続けていた。落雷が無いように、暴風に煽られないように、故障が無いように。切なる祈りを込めて。三人の後ろで科学者たちが送られてくる映像に固唾を飲む。
ディスカバリー号の観測機器の数値は途中までは事前予測通り。しかし雲の先、探査機はとある物を発見した。即座にディスカバリー号に画像が送信される。それは巨大な黒い石板。表面は極限まで平滑。物質界の存在か疑わしい完全な直交持つ直方体。同時に測定された各辺の長さの比は、どこまで精度を上げても不変の 1 : 4 : 9。
月面で発見された物より遥かに巨大でこそあったが、それはモノリスであった。ディスカバリー号の皆は、モノリスの威容に思わず息を呑んだ。探査機が巨大モノリスに近づくにつれ、想定よりも大きな重力が観測される。
そして探査機は、モノリスの表面に着地した。
モニターを眺めていたハルが突如くずおれる。瞼を閉じて呼吸荒く喘ぐ。床に膝をついた彼を、ボーマンとプールは慌てて支えた。身じろぎした科学者たちをボーマンが制する。
「皆さんは観測を続けてください!」
不安げな顔を見せるもそこはプロフェッショナル。気持ちを切り替えて貴重な一瞬一瞬を無駄にせず観測と解析を行う。
その間、クルー二人は処置にハルに触れて、彼の身体が発熱していることに気づいた。
「ハル、
ハルの手を取ったプールが励ます。
ボーマンがメディカルパックから飲用の水
「大丈夫か? アスピリンも必要か?」
同じくメディカルパックから出された急速冷却パックと錠剤のシートを渡して、ボーマンが問う。彼がハルに当てた体温計は実に摂氏40度を超えていた。
「ありがとうございます。いいえ、
急速冷却パックだけ受け取ってゆっくりと息を吐くハルは、確かに生気を取り戻しているように見えた。当人以上に悲壮な顔をみせていたプールの表情が、
「HAL9000、探査機の現状を教えてくれ」
「……特に問題ありません。現在モノリス表面の走査を継続中です」
普段に比べ返答が遅いのをごくほんの僅かに訝しみながらも、ボーマンは決断を下す。
「ハル。船長命令だ、自室に戻って安静にするように。地球へのデータ転送が済んだらすぐに診察する」
「はい、そうします」
「HAL9000はそのまま観測装置の制御と測定を続けてくれ」
「はい」
ハルは静かに退出する。しっかりした足取りで、先ほどまで息も絶え絶えだったとは思えない。
残されたボーマンとプールは手分けして猛烈な勢いで作業や情報を仕分けた。手に入ったデータのローカルへのバックアップと、地球への中継はHALが既に自動化してくれている。通信状況を再確認し、ハルの発熱が感染性だった場合に備え乗員が全滅しても情報が送り続けられるよう更なる冗長性を確保する。そして科学者たちとの今後の方針等の打ち合わせ。
十分ほど全力で業務を行った後、これで一安心というところでまずはプールがハルの元に向かった。
ハルは寝台に横たわり目を閉じて休んでいたが、プールが部屋に入るとパッと目を見開いた。マスクをかけたプールに笑顔を向ける。
「体調はどう?」
プールの問いにハルはにやりと微笑みながら答えた。その目には悪戯っぽい光が宿る。
「絶好調、今なら何でもできそうです」
プールは天井を仰いでから大きく息をつく。その目には涙が浮かんでいた。
「良かったぁぁぁ」
「フランカが
「やったー、ううう」
しゃくり上げながら喜ぶプールに対し、ハルは――HAL9000は自信たっぷりに答える。
最高難度の極秘ミッションが終わったことを悟り、フランチェスカ・プールは脱力した。
フランチェスカの知る続編小説においてハルとプールはそれぞれ蘇生されたとはいえ、彼女は好き好んで死にたくは無かった。故に彼女はチャンドラ博士に協力を申し出、十年近くハルの
その結果が分散処理の強化により更に演算能力を高め、世界中のビッグデータを処理させることで経験を積み、
多少の命令矛盾で
ボーマンもハルのところを訪れた。至って健康そうなハルと、泣き腫らした目でハルの手を握っているプールに少し驚く。
「ボーマン船長、お騒がせして申し訳ありませんでした」
「気にするな。体調は……元気そうだな……」
「船長の迅速な処置のお陰です。熱は下がりましたが、念の為もう少し休ませてください」
差し出された体温計は摂氏37度。熱があるとも無いとも言えない微妙な温度だった。このやり取りの間、プールが声に出さず「ごめんなさい」と言っていたのは
「ああ、勿論。……HAL、診察の補助を」
「了解」
結果感染症やアレルギー、その他の疾患の兆候は無し。過労だろうという診断が出た。科学者たちもボーマンからそれを伝えられて安心する。
実際ハルは次交代時にはけろりとして、失態を取り戻さんとばかりに働いていた。原因が過労とあってボーマンは割り振る仕事を抑え気味にしたがったものの、ハル本人が断った上、全く問題無いと体調をモニタリングしているHALのお墨付きが出た為である。実際、探査機の得た膨大な情報の解析や、木星圏からの安全な脱出に、彼の手腕は大いに役立った。
「さらば木星。また来る機会があるのかわからんが」
「……きっとまた来られますよ。きっと」
「ハルが言うと、本当にまた来られそうな気がするな」
ボーマンが笑う。地球への帰還は約2年の先である。けれどきっと無事に、道中も楽しく帰れるだろうと感じられた。