霧の降り積もる地方都市、黒神ヶ淵(くろかみがふち)。
山と海に閉ざされたその町には、誰も口にしない夜の決まりごとがある。
「月のない夜には外に出るな」
「黒神山には近づくな」
「血の話は、冗談でもするな」
地下には“黒神ノ穴”と呼ばれる巨大な空洞が眠っている。
かつてそこに“獣”が封じられたという伝承は、いまやただの都市伝説として忘れられつつある。
だがそれは、あくまで「表の世界」の話。
黒神ヶ淵には、血を啜る者たちがいる。
快楽に生きる吸血鬼。
孤独に吠える人狼。
そして、両者の呪いを受け継いだ混血の存在。
彼らは“血”によってつながり、“血”によって呪われる。
他者と混ざることで、自分は自分でなくなるのか?
痛みの中にしか、本当の「私」は存在しないのか?
哲学も祈りも届かない闇の底で、
少年は少女となり、自分と他者を重ねながら、
「人であるとは何か」を問う。
これは、血よりも深い孤独と、
絆よりも痛い再生の物語。
第1話:事故と断絶
世界が僕に何かを要求しているように思えたことは、一度もない。
つまり、僕がここに存在する理由は、たぶん、誰にとってもどうでもいいことなのだろう。僕にとっても、少しだけそう思っている節がある。
今朝、駅へと続く坂道を歩きながら、そんなことを考えていた。
柊 日向――それが、僕の名前だ。高校二年生、十七歳。誕生日は春。血液型はたぶんA型。親に言われたままそう思っているけれど、証明する手段はない。僕が本当に「柊日向」であるという根拠は、たとえば学生証の写真と、そこに印字された名前だけだ。
“自分とは何か”という問いには、多くの哲学者たちが敗北してきた。
僕のような一介の学生が、それを十数年で理解できるはずもない。だが、それでも朝の空気が肌を刺すような冷たさを持つとき、僕は「ここにいること」を問い直したくなる。
「日向、バス出るぞ!」
背後から声がした。
同じクラスの佐倉だった。彼はあまり人の話を聞かないタイプで、たぶん僕の答えも最初から期待していないのだろう。だから僕は返事をしないまま、かかとの緩んだ靴を引きずって、坂を早足で下った。
エピクロスは、快楽こそが人生の究極の目的だと説いた。
しかし彼が語る快楽とは、単なる官能ではなく、「痛みのないこと」だったという。
ならば、通学バスを追いかけるというこの動作は、快楽か、それとも苦痛か。あるいは、痛みを意識することこそが“生”の証明だとすれば、僕は今、最高に“生きている”。
けれどその感覚は、すぐに途切れることになる。
クラクション。
正確には、その音が聞こえるよりも前に、空気の密度が変わった。
僕の視界に、何か白いものが突っ込んできた。
重い音と共に、地面が消えたように感じた。
それが“事故”というものだったのだと、気づいたのはずっと後になってからだった。
身体が宙に浮く――という感覚は、たぶん脳の錯覚にすぎない。
本当は、その瞬間、僕の身体は重力に逆らえず、ただ斜めに投げ出されたのだろう。衝突の直前、目にしたのは、黒いグリルと、助手席のカップホルダーだった。
その次の瞬間、すべてが途切れた。
真っ暗な空間。
音がない。匂いも、風もない。
目を開けているのかどうかも分からない。ただ、意識だけがそこに浮いている。
“我思う、ゆえに我あり”。デカルトの言葉が、唐突に浮かぶ。
思考しているという事実。それが存在の証明。
ならば今、考えている僕は、生きているのだろうか。
けれど、“僕”とは誰なのか。
自分の名前も、年齢も、声も、ここにはなかった。
重力の方向が不明瞭な空間。腕を動かそうとすると、何かが鈍く反応した。
皮膚の感覚が戻り、ひざの存在を思い出す。
それは、まるで“誰かの身体”にログインしているような違和感だった。
体を起こす。痛みはない。けれど、どこかが擦れているような感触が残る。
耳鳴り。いや、違う。――誰かの声?
「……あれ……」
少女の声だった。
けれど、それは僕の口から発されたものではない。耳の奥に、柔らかく響いた。
鼓膜を通さない音。むしろ、脳の内側で直接再生されたような感覚。
僕は、死んだのだろうか。
それとも、“誰か”の中に、僕が紛れ込んでしまったのか?
「……俺……死んだのか……?」
呟いた言葉は、静かに空間の中に溶けていった。
そして、その反響の代わりに、もう一度、あの少女の声が聞こえた。
――“君は、もう君じゃない”。
その言葉を最後に、世界は、ゆっくりと色を取り戻しはじめた。