血よりも深く ―地方都市“黒神ヶ淵”異譚―   作:くにゅたろ

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第2章 第4話:封印と穴

 

 山の道は静かだった。

 霧が深いせいで、木々の色も、土の匂いも、すべてが淡くにじんでいた。

 空気に鈴の音が混じっているのは、風鈴なのか、それとも耳鳴りなのか。

 境界が、すこしずつ曖昧になっていく。

 

 ナギの足取りは正確だった。

 道なき道を踏み分けながら、まるで何かを追っているように進む。

 彼の背中を追いながら、僕は何度も自分の足元を確かめた。

 このブーツの重みが、今日の自分の身体の唯一の実感だった。

 

 

 

「こんな場所があるなんて、信じられないだろう?」

 

 不意に、ナギが言った。

 振り向かないまま、背後に語りかけるような声だった。

 

「……全部が、夢みたいだよ」

 

 返事をしながら、僕は自分の声に違和感を覚えた。

 高い。薄い。湿っている。

 喉を通って出る声が、自分のものではないように響く。

 

 「現実に見えることが現実とは限らない。人間の脳は、五感からの入力を解釈しているだけだからね」

 「じゃあ、いま僕が見てる君も、幻かもしれない?」

 

 ナギはふと振り返った。

 長い前髪の影に隠された片目から、ちらりと鋭い視線が覗いた。

 

 「君が幻を見ているか、君自身が幻なのか――その問いは同じ意味を持つ。

 現実というのは、自己認識の残像みたいなものだからね」

 

 それは、思考実験めいた言い回しだった。

 だが、ナギの口から出ると、それが比喩であるかどうかは判然としなかった。

 

 

 

 登山道というには荒れすぎた獣道の先に、小さな石碑があった。

 表面は苔に覆われていたが、ところどころに文字が彫られている。

 

 《黒神ノ穴――封ずるは獣、解けしは人》

 

 誰が刻んだものかもわからないその文に、ナギは手袋越しの指で触れた。

 

「この町の伝承では、“黒神ノ穴”は災厄の封印とされてる。

 でも、封印とは何を指すと思う?」

 

「災厄って、具体的には……?」

 

 ナギは小さく肩をすくめた。

 

 「“理性を失わせるもの”――それが、この町での災厄の定義だよ。

 快楽、暴力、本能、欲望。つまり、人間の中に元からあるものを外部化した存在。

 それを“獣”と呼んだ」

 

 僕は、無意識に自分の爪を見た。

 昨日の夜、あのとき、伸びかけた牙の感覚が蘇る。

 

 

 

「……でもさ、快楽って、悪いものなのかな」

 

 自分でも、思っていたより冷静な声だった。

 ナギは少しだけ意外そうに、僕を見返す。

 

「たとえば、エピクロスって知ってる? 古代ギリシアの哲学者。

 彼は“快楽こそが善”だって言ったんだよ。ただし、それは“痛みのない状態”を最上とする、控えめな快楽だった」

 

「……じゃあ、痛みを欲するのは?」

 

 「マゾヒズムかい?」

 

 ナギはわずかに笑った。

 それはあまりにも自然で、どこか寂しさを含んだ笑みだった。

 

 「痛みを欲するのも、ある種の快楽。

 でも、その快楽には“自己確認”が混じってる。

 自分がまだ“感じている”ことを確かめたいという欲望。

 つまり――存在を証明するための苦痛だ」

 

 その言葉が、胸の内側に引っかかった。

 僕が感じていた渇き、牙の疼き、血の熱。

 あれは快楽だったのか、苦痛だったのか。

 

 たぶん、両方だった。

 

 

 

 その先にあったのは、空洞だった。

 山の中腹、断崖のような地形の奥に、ぽっかりと開いた巨大な穴。

 まるで、そこだけが世界の裏側に繋がっているかのように、音が吸い込まれていた。

 

 「……これが、“黒神ノ穴”」

 

 声が自然と小さくなった。

 目の前にあるその空間が、“穴”というにはあまりにも異様すぎた。

 

 「アカリは、ここに入った。十年前。たった一人で」

 

 ナギの声が、深く、静かに響く。

 振り向くと、彼の目がどこか遠くを見ていた。

 

「戻ってきたとき、彼女は“違っていた”。

 血の匂いを纏っていた。目が赤く、時々金色に変わった。

 彼女の中には、何かが入り込んでいた――いや、もともと、そうだったのかもしれない」

 

 

 

 風が吹いた。

 長い髪が頬を撫でた。

 それは、自分で制御できない動きだった。

 

 首筋に触れた感触が、じんと熱を残した。

 誰かに触られたような錯覚――けれど、それは“自分の髪”だった。

 

 この身体には、僕の歴史がない。

 この声、この指、この細い足首、セーラー服の襟、レギンスの締めつけ、ブーツの硬さ。

 どれもが、どこか借り物のように感じられた。

 

 

 

 「君の身体は、獣の血を孕んでいる」

 ナギが言った。

 

 「それは、“封じきれなかったもの”だ。

 アカリの中にあった“獣”は、眠っていた。でも、今は――君の中で目を覚まし始めてる」

 

 僕は、それを否定できなかった。

 あの夜、もしナギが来なかったら、僕は人を噛んでいた。

 血を、吸っていた。

 

 そこに理性はなかった。

 ただ、生存本能と快楽への衝動だけがあった。

 

 「……俺は、“彼女”の記憶を生きてるの?」

 

 「いいや。君は、“彼女の不在”を生きてる」

 

 ナギの声は、ほんのわずかだけ震えていた。

 

 

 

 僕は、自分が誰かを知らない。

 けれど、もう知っていることがある。

 この身体には、たしかに何かがいる。

 それは僕ではないし、アカリでもない。

 けれど、どちらでもあって、どちらでもない何か。

 

 

 

 「この町には、まだ“アカリ”の痕跡があるはずだ」

 ナギは言った。

 

「それを辿ることが、君自身を知る手がかりになるかもしれない。

 ……たとえ、そこに待っているのが“曇り”だけだったとしても」

 

 

 

 霧が、穴の中に吸い込まれていく。

 その深淵に立ちながら、僕は自分の境界が少しずつ崩れていくのを感じていた。

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