山の道は静かだった。
霧が深いせいで、木々の色も、土の匂いも、すべてが淡くにじんでいた。
空気に鈴の音が混じっているのは、風鈴なのか、それとも耳鳴りなのか。
境界が、すこしずつ曖昧になっていく。
ナギの足取りは正確だった。
道なき道を踏み分けながら、まるで何かを追っているように進む。
彼の背中を追いながら、僕は何度も自分の足元を確かめた。
このブーツの重みが、今日の自分の身体の唯一の実感だった。
「こんな場所があるなんて、信じられないだろう?」
不意に、ナギが言った。
振り向かないまま、背後に語りかけるような声だった。
「……全部が、夢みたいだよ」
返事をしながら、僕は自分の声に違和感を覚えた。
高い。薄い。湿っている。
喉を通って出る声が、自分のものではないように響く。
「現実に見えることが現実とは限らない。人間の脳は、五感からの入力を解釈しているだけだからね」
「じゃあ、いま僕が見てる君も、幻かもしれない?」
ナギはふと振り返った。
長い前髪の影に隠された片目から、ちらりと鋭い視線が覗いた。
「君が幻を見ているか、君自身が幻なのか――その問いは同じ意味を持つ。
現実というのは、自己認識の残像みたいなものだからね」
それは、思考実験めいた言い回しだった。
だが、ナギの口から出ると、それが比喩であるかどうかは判然としなかった。
登山道というには荒れすぎた獣道の先に、小さな石碑があった。
表面は苔に覆われていたが、ところどころに文字が彫られている。
《黒神ノ穴――封ずるは獣、解けしは人》
誰が刻んだものかもわからないその文に、ナギは手袋越しの指で触れた。
「この町の伝承では、“黒神ノ穴”は災厄の封印とされてる。
でも、封印とは何を指すと思う?」
「災厄って、具体的には……?」
ナギは小さく肩をすくめた。
「“理性を失わせるもの”――それが、この町での災厄の定義だよ。
快楽、暴力、本能、欲望。つまり、人間の中に元からあるものを外部化した存在。
それを“獣”と呼んだ」
僕は、無意識に自分の爪を見た。
昨日の夜、あのとき、伸びかけた牙の感覚が蘇る。
「……でもさ、快楽って、悪いものなのかな」
自分でも、思っていたより冷静な声だった。
ナギは少しだけ意外そうに、僕を見返す。
「たとえば、エピクロスって知ってる? 古代ギリシアの哲学者。
彼は“快楽こそが善”だって言ったんだよ。ただし、それは“痛みのない状態”を最上とする、控えめな快楽だった」
「……じゃあ、痛みを欲するのは?」
「マゾヒズムかい?」
ナギはわずかに笑った。
それはあまりにも自然で、どこか寂しさを含んだ笑みだった。
「痛みを欲するのも、ある種の快楽。
でも、その快楽には“自己確認”が混じってる。
自分がまだ“感じている”ことを確かめたいという欲望。
つまり――存在を証明するための苦痛だ」
その言葉が、胸の内側に引っかかった。
僕が感じていた渇き、牙の疼き、血の熱。
あれは快楽だったのか、苦痛だったのか。
たぶん、両方だった。
その先にあったのは、空洞だった。
山の中腹、断崖のような地形の奥に、ぽっかりと開いた巨大な穴。
まるで、そこだけが世界の裏側に繋がっているかのように、音が吸い込まれていた。
「……これが、“黒神ノ穴”」
声が自然と小さくなった。
目の前にあるその空間が、“穴”というにはあまりにも異様すぎた。
「アカリは、ここに入った。十年前。たった一人で」
ナギの声が、深く、静かに響く。
振り向くと、彼の目がどこか遠くを見ていた。
「戻ってきたとき、彼女は“違っていた”。
血の匂いを纏っていた。目が赤く、時々金色に変わった。
彼女の中には、何かが入り込んでいた――いや、もともと、そうだったのかもしれない」
風が吹いた。
長い髪が頬を撫でた。
それは、自分で制御できない動きだった。
首筋に触れた感触が、じんと熱を残した。
誰かに触られたような錯覚――けれど、それは“自分の髪”だった。
この身体には、僕の歴史がない。
この声、この指、この細い足首、セーラー服の襟、レギンスの締めつけ、ブーツの硬さ。
どれもが、どこか借り物のように感じられた。
「君の身体は、獣の血を孕んでいる」
ナギが言った。
「それは、“封じきれなかったもの”だ。
アカリの中にあった“獣”は、眠っていた。でも、今は――君の中で目を覚まし始めてる」
僕は、それを否定できなかった。
あの夜、もしナギが来なかったら、僕は人を噛んでいた。
血を、吸っていた。
そこに理性はなかった。
ただ、生存本能と快楽への衝動だけがあった。
「……俺は、“彼女”の記憶を生きてるの?」
「いいや。君は、“彼女の不在”を生きてる」
ナギの声は、ほんのわずかだけ震えていた。
僕は、自分が誰かを知らない。
けれど、もう知っていることがある。
この身体には、たしかに何かがいる。
それは僕ではないし、アカリでもない。
けれど、どちらでもあって、どちらでもない何か。
「この町には、まだ“アカリ”の痕跡があるはずだ」
ナギは言った。
「それを辿ることが、君自身を知る手がかりになるかもしれない。
……たとえ、そこに待っているのが“曇り”だけだったとしても」
霧が、穴の中に吸い込まれていく。
その深淵に立ちながら、僕は自分の境界が少しずつ崩れていくのを感じていた。