音のない朝だった。
霧の濃さは昨日よりも深く、街の輪郭がほとんど見えなかった。
遠くの景色があるという前提がなければ、世界が途切れているようにすら思えた。
ナギは先を歩いていた。
黒いロングコートの裾が、何もない空間に影を落としていた。
彼の歩き方は静かだったが、迷いはなかった。まるで、何かに導かれているように、一直線に霧の中を進んでいた。
僕は少し後ろから、その背中を追った。
コートの動き、足音の間隔、肩の位置。すべてが“計算されている”ように見えた。
それは、戦うための歩き方だった。
彼が立ち止まったのは、崩れかけた鳥居の前だった。
両脇の柱は苔むしており、上部の横木は途中で折れて、地面に傾いていた。
境内と呼べるほどの敷地もなく、ただ、木々の間にぽっかりと空いた空間があるだけだった。
「……神社?」
「廃神社、というべきだろうね。地図にはもう載っていない。
けれど、ここは……アカリがよく来ていた場所だ」
僕は鳥居をくぐった。
その瞬間、空気の密度が変わった気がした。
霧が濃くなったのではない。音の反響が、わずかに違っていた。
まるで、自分の呼吸だけが場違いに響いているような気配。
ナギは、朽ちかけた絵馬を拾い上げた。
木片の表面は雨に打たれてほとんど文字が滲んでいたが、一部だけ、かろうじて読み取れる。
《アカリが、いなくなりませんように。》
「……これは」
「十年前、この町に“消えた少女”の話が広まった。
ある日突然、家を出て、そのまま戻らなかった。
戻ってきたのは、数日後だった。まるで、何もなかったかのように」
ナギの指先が、絵馬の縁をなぞっていた。
その動きが、どこか祈るように見えた。
「その少女の名が……アカリ」
鳥居の裏手、小さな祠が崩れかけていた。
その隙間から、地下へ続く石段が顔を覗かせていた。
「……こんなところに、階段が……」
「おそらく、かつての“社家”が使っていた通路だろう。
あるいは、もっと別の、封印のためのものかもしれない」
階段を見下ろすと、奥は真っ暗だった。
空気が冷たい。けれど、それよりも、匂いがあった。
鉄のような、湿ったような――どこかで嗅いだことのある、記憶を揺らす匂い。
僕の喉が、ごくりと鳴った。
ナギは、懐中時計を見て言った。
「今は入らないほうがいい。夜の残滓が、まだ残ってる。
獣の記憶が、そこにはある」
「アカリは……ここで、何をしていたの?」
その問いには、答えがなかった。
ナギはただ、静かに視線を階段の奥へ落としていた。
神社を出た帰り道、小さな公園の前を通った。
ブランコの鎖が風に揺れ、きぃ、とか細い音を立てた。
子どもたちの声が、空気に跳ねていた。
縄跳びのリズム。歌。意味のない言葉の連なり。
「アカリちゃん 夜に消えた
月の下で 獣になる
アカリちゃん 朝に戻る
でも もう 人じゃない」
その瞬間、背中を冷たいものが撫でた。
子どもたちは、笑いながら歌っていた。
それがただの遊びだと分かっていても、その言葉の芯には何かが残っていた。
伝承。記憶。あるいは、町の無意識。
「アカリという存在は、もうこの町の“物語”になってる」
ナギの声が静かに重なる。
「人は、名前を忘れても、物語の形で記憶を残す。
アカリは、もう“誰か”ではなく、“何か”になってしまった」
「……でも、じゃあ、僕は?」
問いが、口から滑り落ちた。
誰にも聞こえないような、小さな声だった。
「僕は、その“物語の残骸”なの?」
その問いに、ナギはすぐには答えなかった。
代わりに、まっすぐ僕の目を見て言った。
「君が何か、という問いは……君がどう在りたいか、という願いに近い。
存在は定義ではなく、選択でできている」
それは、哲学の言葉だった。
けれど、それは祈りにも似ていた。
家に戻って鏡を見たとき、ふと、目が赤く光った気がした。
ほんの一瞬、金色が交じったように見えた。
それは、目の錯覚かもしれない。
でも、もしかしたら――“彼女”が、また一歩、僕の中に近づいてきたのかもしれなかった。
境界は、もう曖昧だった。
自分が誰なのかを確認するたびに、“彼女”の影が深くなる。
自分の中の“アカリ”と、町に残る“アカリ”とが、少しずつ、重なっていく。
それは、曇りのはじまりだった。