第3章 第1話:止まらぬ渇き
喉が、焼けるように渇いていた。
それは、夏の脱水症状のような、単なる水分不足とは異なる。
もっと粘度が高くて、もっと鋭くて、もっと“本質的な”渇き。
体内のどこかに、ずっと乾いた管が通っているような感覚。
息を吸っても、そこに空気が届かない。
水を飲んでも、胃の底に落ちる音が響くだけで、喉の裏側は潤わなかった。
街に出るのは、久しぶりだった。
そう思っていたが、実際には、数日しか経っていなかったのかもしれない。
日常という概念は、時間の経過とは別のところに存在している。
一度でも“それ”を逸脱すると、もう戻るのに何年分もの精神を必要とする。
駅前のロータリーでは、買い物袋を下げた中年女性が誰かと通話していた。
カフェの外席には、大学生らしい男女が紙カップを持って笑っている。
横断歩道では、ベビーカーを押した母親と幼い女の子が手を繋いでいた。
その子の首筋が、陽に透けていた。
白く、細く、無防備に。
血管の位置が、なぜか正確にわかる気がした。
視線がそこに吸い寄せられていた。
意識は別の場所にあるはずなのに、眼球だけが独立して動いていた。
呼吸が荒くなる。肺の動きと脈拍が一致しなくなる。
頭の奥で何かが振動している。
“欲しい”という言葉が、形にならないまま脳内で繰り返される。
喉の奥で何かが疼く。
唾液が滲む。
口の中が、熱い。
僕は立ち止まり、背を向けた。
逃げるように曲がった路地の中は、誰もいなかった。
でも、それが安全だとは思えなかった。
この“身体”が、僕の命令に従う保証はもうない。
息を吐く。
目を閉じる。
指先を握る。
それでも、衝動は収まらない。
この体は、僕ではない。
この喉の渇きは、僕のものではない。
それでも、“僕”がその中に住んでいる。
カフェの前を通りすぎるとき、硝子に映った自分の顔を見た。
少女の顔。
黒い髪。深紅の瞳。時折、金色に光る気配。
眠たげな眼差しの奥に、獣の形が棲んでいる。
――これが、僕の顔だというのか。
違う。
これは、借りものだ。仮面だ。乗り物だ。
でも、その乗り心地が、日に日に馴染んでしまっているのが怖い。
再び通りの角を曲がるとき、すれ違った女性が僕の顔を見た。
一瞬だけ、彼女の目が驚いたように見開かれた。
次の瞬間には、何事もなかったかのように歩き去っていったけれど、
その視線は、喉にまで突き刺さるほど鋭かった。
――自分を止めなければならない。
でも、止めるための“僕”は、どこにいる?
気づけば、目の前に女の子が立っていた。
制服姿。ランドセル。左手にペットボトルの水。
僕の視線は、まっすぐ彼女の首筋に向かっていた。
身体が動いた。
ほんの一歩、足が前に出た。
次の瞬間、右手が伸びかけた。
“だめだ”という声が、心の奥で響いた。
それでも、止まらなかった。
意識と肉体の連結が、数秒だけ解除されていた。
その数秒の間に、世界は血の匂いで染まろうとしていた。
「やっぱり、来たね」
声がした。
僕の右肩に、そっと手が置かれた。
振り返らなくても、わかった。
黒いコートの気配。銀色の髪。濡れたような青白い肌。
黒神ナギ。
「こんなところにいるって、思ってた」
彼の声は静かだった。
怒りもなく、慰めもなく、ただ“事実”としての言葉だった。
僕はその場にしゃがみ込んだ。
地面が、遠かった。
身体の中身が全部入れ替わってしまったように、何もかもが軽かった。
軽さは、空虚さとほとんど同義だ。
「……止められなかった」
自分の声が、自分のものではない気がした。
あのとき手を伸ばしたのは、“僕”だったのか?
それとも、身体のどこかに住んでいる“誰か”だったのか?
ナギはしゃがんで、僕の目線に合わせた。
その視線は、氷のように冷たかったが、どこかで僕の感情を測っているようにも思えた。
「渇きは、強くなるよ。
君の中にいるものが、覚醒を始めてるからね」
「……どうすればいい?」
「地下に戻るしかない。答えは“そこ”にある」
僕は、かすかに頷いた。
ナギの言葉が、正しいかどうかはわからなかった。
でも、他に方法はなかった。
人間であることを捨てるのではない。
人間であることの根拠が、そもそも失われているのだ。
そして今、僕の中には“誰か”がいる。
彼女は、僕の顔を通して世界を見ている。
彼女は、僕の手を通して首筋に触れようとしている。
彼女は、僕の渇きを知っている。
そのことを否定できない。
だからこそ、僕はもう一度、“黒神ノ穴”に還るしかなかった。