血よりも深く ―地方都市“黒神ヶ淵”異譚―   作:くにゅたろ

13 / 63
第3章 第2話:ナギの警告

 

 ナギの部屋には、異常なほどの沈黙があった。家具の配置も、窓の遮光も、すべてが音を拒絶するために選ばれたようだった。

 

 重く垂れたカーテンの向こうでは、朝の光がかすかに反射しているはずだった。だがこの空間の中に、それは一切届かない。

 部屋に満ちているのは、紙とインクと、微かに鉄を含んだ血の匂い。

 

 背の高い本棚が三方を囲んでいた。色褪せた背表紙、革張りの古書、紙魚に食われた洋書。まるで知識そのものが劣化し、固着していく過程を可視化したような空間だった。

 

 ナギはその中心にいた。

 

 黒いロングコートに身を包み、無言で机の前に座る。前髪の奥に隠された片目は、常に沈黙のなかにある。彼の顔は中性的で整っていたが、どこか“未完成”にも見えた。表情が欠けているからだ。

 

 机の上に、小さな銀色の瓶が置かれていた。細いガラス管の中で、透明な液体が微かに揺れていた。

 

「制御剤だ」

 ナギが口を開いた。どこか乾いた声だった。

「渇きと反応速度を抑える。吸血衝動が出たときのための処置薬。副作用は眠気と、夢だ」

 

 僕は瓶を手に取った。光を通すそれは、何かの涙のように見えた。

 けれど、すぐに指を離し、瓶は机に軽く音を立てて戻った。

 

「いらない」

 

「なぜ?」

 

 僕は答えなかった。代わりに、喉の奥がひくついた。

 昨日、あの子の首筋に手を伸ばしかけた時の感触が、まだ指の内側に残っている。

 

「……薬で止めるのは、自分じゃない。

 止めるために必要なのは、たぶん……僕自身だと思いたい」

 

 ナギは、ほとんど動かなかった。ほんの一瞬、眼鏡の縁が光っただけだった。

 

「その考え方は危うい。だが、分かる。……君は、自分を試したいんだな」

 

 机の引き出しを開け、ナギは小さな木箱を取り出した。中には、古びた手帳の断片と数枚の写真が収められていた。

 

 一枚目の写真。白黒の病室。ベッドの上に、無表情の少女。

 二枚目。手術器具と血の跡。

 三枚目。椅子に縛られ、目隠しをされた少女の姿。

 

 僕は息を詰めた。その顔は、たしかに“僕に似ていた”。だが、それは僕ではない。

 

「これは……」

 

「アカリの痕跡だ」

 

 ナギの声が低く響いた。

「彼女は“混血種”として、ある組織に実験的に関わっていた可能性がある。記録は改竄され、残っていない。だが、断片は物語る」

 

「……君はアカリじゃない。でも、完全に日向でもない」

 

 その言葉は、心臓に静かに沈んだ。

 痛みというより、“予感”に近いものだった。

 

 僕は何かを失いかけていた。

 それは名前かもしれないし、人格かもしれない。あるいは、“確信”そのもの。

 

「君の身体はアカリのもの。だが、精神は日向として始まり、今や混線している。夢。記憶。感覚。それらはすでに一人分ではない」

 

「……でも、それが悪いことだとは限らないんだろ?」

 

 僕はそう返した。自分の声が誰かの声のように聞こえた。

 

 「哲学的には、そうかもしれない」

 ナギは口元をわずかに歪めた。皮肉とも、同意とも取れる表情。

 

 「“スワンプマン”の思考実験を知っているか? ある男が落雷で即死し、全く同じ構造のコピーが生まれる。記憶も感情も、完全に同じ。だが、それは“本人”なのか?」

 

「……本人じゃない。でも、“そう思っている”なら、それはもう本人と変わらない」

 

「ならば、君は何者だ?」

 

 ナギの問いは、まるで問いではなかった。

 それは、“答えがある”とは限らない種類の命題。

 

 僕は、黙っていた。

 答えようとすればするほど、“僕”という言葉が崩れていくのがわかった。

 

「今のお前に必要なのは、“境界を確かめること”だ」

 

 ナギは懐から懐中時計を取り出した。銀色の蓋が開く音が、時間の裂け目のように響いた。

 

「地下へ行こう。君の答えは“そこ”にある」

 

 その声には、選択肢が含まれていなかった。

 

 ナギの目が、前髪の隙間から覗いた。

 金属のような光を宿した左目と、隠された右目。その非対称が、彼の存在を輪郭ごと曖昧にしていた。

 

 この人もまた、“人間”ではなかった。

 けれど、僕自身もまた――そうではないのかもしれない。

 

 何かを取り戻すためにではなく、“自分の正体がすでに空白であること”を受け入れるために。

 

 僕は、地下へ向かうことにした。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。