ナギの部屋には、異常なほどの沈黙があった。家具の配置も、窓の遮光も、すべてが音を拒絶するために選ばれたようだった。
重く垂れたカーテンの向こうでは、朝の光がかすかに反射しているはずだった。だがこの空間の中に、それは一切届かない。
部屋に満ちているのは、紙とインクと、微かに鉄を含んだ血の匂い。
背の高い本棚が三方を囲んでいた。色褪せた背表紙、革張りの古書、紙魚に食われた洋書。まるで知識そのものが劣化し、固着していく過程を可視化したような空間だった。
ナギはその中心にいた。
黒いロングコートに身を包み、無言で机の前に座る。前髪の奥に隠された片目は、常に沈黙のなかにある。彼の顔は中性的で整っていたが、どこか“未完成”にも見えた。表情が欠けているからだ。
机の上に、小さな銀色の瓶が置かれていた。細いガラス管の中で、透明な液体が微かに揺れていた。
「制御剤だ」
ナギが口を開いた。どこか乾いた声だった。
「渇きと反応速度を抑える。吸血衝動が出たときのための処置薬。副作用は眠気と、夢だ」
僕は瓶を手に取った。光を通すそれは、何かの涙のように見えた。
けれど、すぐに指を離し、瓶は机に軽く音を立てて戻った。
「いらない」
「なぜ?」
僕は答えなかった。代わりに、喉の奥がひくついた。
昨日、あの子の首筋に手を伸ばしかけた時の感触が、まだ指の内側に残っている。
「……薬で止めるのは、自分じゃない。
止めるために必要なのは、たぶん……僕自身だと思いたい」
ナギは、ほとんど動かなかった。ほんの一瞬、眼鏡の縁が光っただけだった。
「その考え方は危うい。だが、分かる。……君は、自分を試したいんだな」
机の引き出しを開け、ナギは小さな木箱を取り出した。中には、古びた手帳の断片と数枚の写真が収められていた。
一枚目の写真。白黒の病室。ベッドの上に、無表情の少女。
二枚目。手術器具と血の跡。
三枚目。椅子に縛られ、目隠しをされた少女の姿。
僕は息を詰めた。その顔は、たしかに“僕に似ていた”。だが、それは僕ではない。
「これは……」
「アカリの痕跡だ」
ナギの声が低く響いた。
「彼女は“混血種”として、ある組織に実験的に関わっていた可能性がある。記録は改竄され、残っていない。だが、断片は物語る」
「……君はアカリじゃない。でも、完全に日向でもない」
その言葉は、心臓に静かに沈んだ。
痛みというより、“予感”に近いものだった。
僕は何かを失いかけていた。
それは名前かもしれないし、人格かもしれない。あるいは、“確信”そのもの。
「君の身体はアカリのもの。だが、精神は日向として始まり、今や混線している。夢。記憶。感覚。それらはすでに一人分ではない」
「……でも、それが悪いことだとは限らないんだろ?」
僕はそう返した。自分の声が誰かの声のように聞こえた。
「哲学的には、そうかもしれない」
ナギは口元をわずかに歪めた。皮肉とも、同意とも取れる表情。
「“スワンプマン”の思考実験を知っているか? ある男が落雷で即死し、全く同じ構造のコピーが生まれる。記憶も感情も、完全に同じ。だが、それは“本人”なのか?」
「……本人じゃない。でも、“そう思っている”なら、それはもう本人と変わらない」
「ならば、君は何者だ?」
ナギの問いは、まるで問いではなかった。
それは、“答えがある”とは限らない種類の命題。
僕は、黙っていた。
答えようとすればするほど、“僕”という言葉が崩れていくのがわかった。
「今のお前に必要なのは、“境界を確かめること”だ」
ナギは懐から懐中時計を取り出した。銀色の蓋が開く音が、時間の裂け目のように響いた。
「地下へ行こう。君の答えは“そこ”にある」
その声には、選択肢が含まれていなかった。
ナギの目が、前髪の隙間から覗いた。
金属のような光を宿した左目と、隠された右目。その非対称が、彼の存在を輪郭ごと曖昧にしていた。
この人もまた、“人間”ではなかった。
けれど、僕自身もまた――そうではないのかもしれない。
何かを取り戻すためにではなく、“自分の正体がすでに空白であること”を受け入れるために。
僕は、地下へ向かうことにした。