黒神邸は、丘の上に孤独のように佇んでいた。
瓦屋根と石造りの壁が混在する不統一な建築様式は、どこか不安定な印象を与える。過去と現在が交わるはずのない時間軸で、無理やり抱き合っているような構造。
門を開けたナギの手が、鉄の軋む音を生んだ。
それはまるで、眠っていた何かを起こす合図のように響いた。
敷石の上を歩くたびに、微細な砂が擦れる。風がない。草も揺れない。
まるで、この邸全体が、呼吸をしていない。
「この家は、代々の封印管理者が住んでいた場所だ」
ナギの声は、少しだけ湿っていた。
玄関をくぐると、空気が変わった。
屋内の湿度が異常に低い。古い書物、乾いた木材、そして金属の酸化した匂い。
空間全体が、時間の“外”にあるかのようだった。
廊下には額縁入りの刺繍が飾られていた。精緻な幾何学模様。
中心に、円。周囲に歪んだアルファベットと、見たことのない数字。
「封印術式の基本構成だ」ナギが言った。
「形を保つために、“思念”を織り込んである。ここを通る者の無意識に、緩やかな抑制をかけるんだ」
その説明を聞きながら、僕の背筋にうっすらと寒気が走った。
自分がこの空間に歓迎されていない――いや、逆に、
“長い間、待たれていた”ような気さえしてきたからだ。
廊下の突き当たり、重々しい階段の先に地下への扉があった。
鉄製。黒く、冷たい。
その表面には、見慣れない記号と術式の文様が刻まれていた。
「この扉の封印は、黒神家の血によってのみ開く」
ナギは懐から小さな刃を取り出した。
装飾のない短剣。手慣れた手つきで左手の指先を切る。
赤い血が静かに鍵穴に垂れる。
その瞬間、術式の線がゆっくりと光り始めた。
まるで生き物の血管が拍動するように、赤い光が広がる。
そして。
扉が、音もなく開いた。
そのときだった。
僕の心臓が、ひときわ強く脈打った。
理由もなく、喉の奥が灼けるように熱くなった。
指先がしびれる。胃のあたりが、逆流するように疼いた。
「……なんだ、これ……」
言葉が漏れると同時に、視界がわずかに歪んだ。
壁が波打っているように見える。足元の床が、わずかに沈む。
「君の血も反応したんだよ」
ナギは、僕の反応を観察するように、静かに言った。
「混血種としての因子が、術式と共鳴した。それがこの場所の“鍵”と化している」
僕は息を整えながら、目を閉じた。
脈拍は異様に速い。けれど、内側から沸き立つ感覚には、どこか快楽に近い何かが混じっていた。
それが、“僕”のものではない気がしていた。
この身体の奥で、“別の何か”が微笑んでいる。
ナギは僕の前に立ち、階段を下り始めた。
「この先が、“黒神ノ穴”へ続く最深部だ」
彼の声が、普段よりも低かった。
それは恐れでも緊張でもなく、まるで、祈りのように聞こえた。
階段は、石でできていた。
人ひとりがやっと通れる幅。壁には照明がない。
それでも、目は見えていた。
光のない闇の中で視覚が働く。
その事実に、僕は改めて“人間ではない”ことを悟った。
数十段、数百段、いや、時間の感覚が失われるほどの長さを降りていった先に、それはあった。
広大な空洞。
岩盤が削られ、球状に広がる空間。中心にぽっかりと開いた深穴。
そこから、黒い“何か”がゆっくりと立ち上るような気配。
音がなかった。
風もなかった。
ただ、“重さ”だけがあった。
空気に質量がある。呼吸するたびに、胸が締めつけられる。
ナギが一歩、前へ出た。
その姿は、あまりにも静かで、まるでこの場所に溶け込むようだった。
「ここが、“獣”が眠る場所」
その言葉の響きが、脳内で何度も反響した。
“獣”――その正体を知らぬまま、僕の中の何かがそれに応えていた。
脈が早い。
熱がある。
皮膚が内側から裂けそうだった。
僕の中で、何かが目を覚ましかけていた。
それが“僕”なら、僕はもう、僕ではいられない。
そう直感していた。