血よりも深く ―地方都市“黒神ヶ淵”異譚―   作:くにゅたろ

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第3章 第4話:黒神ノ穴

 

 その空間は、底がなかった。

 重力の方向が、視覚と一致していなかった。垂直に広がっているはずの地面が、不規則に裂け、斜めに沈み込み、さらにその奥には漆黒の縦穴が続いていた。

 

 “暗さ”ではない。これは、“深さ”だ。

 

 黒神ノ穴。

 そう呼ばれてきた場所の意味が、ようやく理解できた気がした。

 

 空洞の中心には巨大な割れ目があった。口のようにも、瞼のようにも見える。目を閉じた生き物が、夢の中で何かを呟いているような錯覚。

 

 ナギは、その境界線に立ち、静かに目を閉じていた。彼の姿はまるで、神殿の祭壇に立つ祭司のようで、現実の中にいて現実を拒んでいるように見えた。

 

 「どう感じる?」

 

 彼の声が、深く、濁らずに響いた。声というより、“音程のない意志”が空気に混じったような感覚だった。

 

 「空っぽ。でも……記憶の匂いがする」

 

 自分でも、なぜそう言ったのか分からない。だが、それが最も正確な言語だった。

 

 この場所には、“記憶の残響”が染み込んでいる。

 人間の記憶ではない。存在の圧痕。その場にあったというだけで刻み込まれた、行為や感情の影。

 

 空気が、わずかに揺れていた。風はない。だが、微細な震動が、耳の奥の毛細管を撫でてくる。

 皮膚の表面に何かが這う。それは、汗でも気温でもない。皮膚に接する外界そのものが変化しているようだった。

 

 歩を進めるたびに、足元の石が微かに鳴る。音は吸い込まれ、反響しない。

 すべてがこの空間に沈んでいく。

 記録されず、伝わらず、ただ“ある”だけ。

 

 「ここに、アカリが……?」

 

 問いというより、自分の思考を音にしただけの言葉。

 ナギは頷いた。

 

 「十年前。彼女は、ひとりでこの穴に入った。三日間、戻らなかった。見つかった時には、違っていた」

 

 「違っていた?」

 

 「血の匂い。目の色。体温。声の調子。笑い方。それらが、全部、少しずつズレていた」

 

 それは、スワンプマンの逆再生だった。

 “同じように見える別人”ではなく、“違って見える同一人物”。

 あるいは、同じ器に、別の中身が注がれたのかもしれない。

 

 僕は静かに、割れ目の縁まで歩いた。

 

 視界が変わった。

 風景が、“僕の目”ではない位置から見えていた。

 

 身長が低い。

 視界が、下から上を仰いでいる。

 白い靴。細い足。胸元に小さな十字のネックレス。

 それらが、僕の身体感覚ではなく、彼女――アカリの感覚だった。

 

 空間が呼び起こしている。

 僕の中の“アカリ”を。

 いや、違う。

 空間が、僕という容れ物を通して、“彼女”を再構成している。

 

 足元に、血痕。

 乾ききった暗褐色。時間だけがその色を残していた。

 だが、それを見た瞬間、胸の奥に甘い痛みが走った。

 それは、“懐かしさ”だった。

 

 「っ……」

 

 身体がぐらりと揺れた。

 視界が歪む。皮膚の下の血管が、別の生命体にすり替わるような感覚。

 膝が折れそうになるその瞬間、ナギの手が肩を支えた。

 

 「君は今、誰だった?」

 

 その問いには答えられなかった。

 

 「分からない。でも……僕じゃなかった」

 

 「この場所は、自己と他者の境界を曖昧にする。

  “存在すること”とは、“記憶を所有すること”ではないか。

  それならば、記憶が揺れれば、自我もまた揺らぐ」

 

 ナギの言葉は、思考実験のように響いた。

 

 “あなたが誰であるか”という問いは、身体ではなく、記憶と選択の連なりでしかない。

 だとすれば、この空間が記憶を書き換えるのなら、ここでの“私”は誰なのか。

 

 「この場所が……私を“つくった”のかもしれない」

 

 その言葉が、口をついて出た。

 “僕”ではなく、“私”と名乗った。

 声の質さえ、変わったように思えた。

 

 ナギが、わずかに表情を動かした。彼にしては、驚くほどはっきりと。

 

 「……それは、彼女も同じように言った」

 

 「え……?」

 

 「十年前。彼女は、穴から戻ってきた時、最初にこう言った。“私はここで、私になった”と」

 

 その言葉の余韻が残る間に、壁面に掘り込まれた碑文が目に入った。

 まるで炭化したような文字。読み取れたのは、その一節だけだった。

 

 『血は記憶を運び、名は意志を継ぐ』

 

 思わず手を伸ばした。

 碑文に触れたその瞬間、視界が白く弾けた。

 次の瞬間、自分が地に立っていないことに気づく。

 

 浮遊感。

 時間も空間も剥がれ、ただ“視点”だけが空中に漂っていた。

 

 黒神ノ穴を、外から見下ろしている。

 そこには、ひとりの少女がいた。

 かつての“アカリ”。

 

 彼女が顔を上げた。

 目が合った。

 

 僕は、その瞬間、身体という枠組みを失った。

 

 視界がフラッシュバックする。

 走る足音。火の匂い。白い衣装が裂け、赤く染まる。

 誰かが倒れている。何かを叫んでいる。だけど、聞こえない。

 

 アカリは、何かから逃げていた。

 あるいは、何かに向かっていたのかもしれない。

 

 それは、誰の記憶だ?

 アカリのもの? この空間に記録された他者の断片?

 

 わからない。

 けれど、確実に“僕の内側”がそれに共鳴していた。

 

 瞬間、耳の奥で鐘の音が鳴った。

 音の正体は風に混じった霊的な共振。現実の音ではない。

 

 何かが、目を覚ましつつある。

 

 ナギが、静かに言った。

 

 「声が……聞こえる。“中から”」

 

 僕の背中を、冷たいものが走った。

 だが、それは恐怖ではなかった。

 

 呼ばれている。

 

 “誰か”が、僕に話しかけている。

 それが、アカリなのか。

 それとも、この場所そのものが意思を持っているのか。

 

 視界の端に、銀色の光。

 ナギの懐中時計が開かれ、時間が止まったかのような錯覚を見せる。

 

 「お前は……何かを取り戻しに来たのか? それとも、捨てに来たのか?」

 

 その問いに、僕は答えられなかった。

 

 この空間が、“僕”を迎え入れようとしている。

 僕という存在が、今まさに“決定されようとしている”。

 

 その確定が、破滅の始まりかもしれない。だが。

 

 ――僕は、それでも進むしかなかった。

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