「こっちへ、おいで」
耳の奥で、ひどくやさしく、小さな声が響いた。囁きというにはあまりに明瞭で、幻聴にしては輪郭がありすぎた。
その声は、僕の意志を問いもしないまま、ただそこに“ある”という形で存在していた。
何かが、導こうとしている。どこかへ、誰かの元へ。
僕は、ふらふらと吸い寄せられるように足を進めた。黒神ノ穴の空間は、先ほどよりもさらに深く、ねじれたような構造になっていた。天井も床も曖昧で、方向感覚すら信じられなくなる。
石畳の隙間に、細い赤い筋が這っていた。血だ。
それは新しいものではなかった。乾いていた。だが、妙に鮮やかだった。まるで時間の流れがこの空間では異なっているかのように。
僕は、その筋を辿るように進んだ。
歩くたびに、視界が揺れた。照明のない暗がりのはずなのに、何かが見えていた。
それは、“彼女”の視界だった。
足音が、二重に響く。
ひとつは僕のもの。もうひとつは、誰かの記憶。
セーラー服の袖が視界の端にちらついた。
白い手。細い指。壁を這うようにして歩いている。あるいは、逃げている?
「もう、すぐそこ」
また、声がした。
今回は確実に、身体の内側からだった。
自分の思考と重なりながら、微妙に違うリズムで響いてくる。
“アカリ”。
その名が、まるで呼吸のように、意識の端に浮かんだ。
ふいに視界が“切り替わる”。
気づけば、僕は――いや、“彼女”は、ある部屋の前に立っていた。
コンクリートの壁。白く塗られた金属の扉。鍵穴には乾いた血の痕。
ドアノブに手をかける。開かない。だが、扉が呼吸しているようだった。
そこには、確かに“何か”がいた。
僕は、いや、アカリは、その扉の前で立ちすくんだ。
内臓がきしむ。何かが身体の奥で泡立つ。熱と冷気が入り交じる。
「……もう、わたしじゃない」
その声が聞こえた瞬間、頭の中で何かが“ぶちっ”と切れた。
全身が、別の生き物のように痙攣する。
骨が軋む。視界が白黒に明滅する。
「っ……あ……ああ……っ」
声にならない声が喉を焼いた。
そのとき、誰かが肩を掴んだ。
ナギだった。
彼は片手で僕を引き寄せ、もう片方の手で何かを呟いた。
その言葉は、意味を持たない呪文のように聞こえたが、たしかに僕の頭の中の“ノイズ”を散らせた。
視界が戻る。
足元が安定する。
呼吸の仕方を、ようやく思い出した。
「……いま……」
僕は、自分の声を確認するように呟いた。
「僕は……アカリだった」
ナギは、目を細めていた。あの、無感情な彼の中に、わずかな焦燥が見えた。
「彼女の意識が、君に近づいている。いや、正確には……君が、彼女の“記憶の回路”を再生してしまっている」
「じゃあ……彼女は……まだ、ここに?」
ナギは頷かなかった。ただ、冷静に言った。
「この場所に染み込んだ記憶は、彼女の意識そのものに限りなく近い。だからこそ、君は“彼女の一部”に巻き込まれる」
僕は震えていた。
それが寒さからなのか、恐怖なのか、自分でも分からなかった。
――私は誰なのか。
そう問いかける度に、鏡の中の自分が遠ざかっていく。
僕は、日向だ。
だけど、この身体はアカリのものだ。
そして今、心の奥底から、彼女の声が、彼女の記憶が、まるで泥のように浮かび上がってくる。
「お前の中の“獣”も、目覚めかけている」
ナギのその声は、まるで警告のように響いた。
獣――それは本能だ。
欲望だ。
理性という仮面の奥に潜んで、血を、傷を、痛みを、そして他者を欲しがるもの。
この身体が、それを宿しているなら、僕は一体、何者なのだろう。
この場所で呼ばれた“声”は、彼女のものだったのか?
それとも、“僕の中の何か”が僕自身に呼びかけていたのか?
答えはまだ出ない。
けれど確かなのは、
――僕はもう、彼女の記憶から抜け出せない。
血が記憶を運ぶなら、
この肉体の奥底にあるすべてが、
僕をアカリへと、導いている。
僕は、それを拒むことができない。
なぜなら、そこに“名前”があるからだ。
僕のものではないはずの名前が、
それでも確かに、僕を呼んでいた。
――アカリ。
名前とは、呼ばれるためにあるのではない。
名付けられることで、私たちは“誰か”になるのだ。
もし誰にも呼ばれなければ、存在は確定しない。
自己とは、他者との関係の中に生成される“記号”のようなものだ。
その意味では、僕はもう、“彼女”と同一化を始めているのかもしれない。
「僕じゃない、私」
口に出した瞬間、喉の奥で別の響きが共鳴した。
それは、懐かしさにも似た苦しさだった。
「君はどちらでもない。そして、どちらでもある」
ナギの声が、石壁の向こうから聞こえてくる。
彼は少し距離を取っていた。恐れているのか、見守っているのか、それは分からなかった。
だがその距離すら、もう現実味を持たなかった。
この空間では、“誰か”と“自分”の区別すら融解していく。
自我とは、連続する記憶の流れと、それに付随する意識の“主観”である。
だとすれば、主観が共有される瞬間に、人格は崩れる。
僕の“主観”が揺れている。
目に見えるものが、皮膚に触れるものが、確実に“彼女の記憶”と重なり始めている。
「わたしは……誰かの記憶の中で、もう一度、生きているの?」
問いのようで、告白のようでもあった。
ナギは答えなかった。
だから、僕は深く息を吐いた。
そして、再び歩き出した。
この声の先に、“私”がいる気がした。
たとえそれが、二度と帰れない場所だとしても。
僕は、そのまま、沈むように闇の底へと進んでいった。