血よりも深く ―地方都市“黒神ヶ淵”異譚―   作:くにゅたろ

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第3章 第5話:呼ばれる声

 

 「こっちへ、おいで」

 

 耳の奥で、ひどくやさしく、小さな声が響いた。囁きというにはあまりに明瞭で、幻聴にしては輪郭がありすぎた。

 

 その声は、僕の意志を問いもしないまま、ただそこに“ある”という形で存在していた。

 

 何かが、導こうとしている。どこかへ、誰かの元へ。

 

 僕は、ふらふらと吸い寄せられるように足を進めた。黒神ノ穴の空間は、先ほどよりもさらに深く、ねじれたような構造になっていた。天井も床も曖昧で、方向感覚すら信じられなくなる。

 

 石畳の隙間に、細い赤い筋が這っていた。血だ。

 

 それは新しいものではなかった。乾いていた。だが、妙に鮮やかだった。まるで時間の流れがこの空間では異なっているかのように。

 

 僕は、その筋を辿るように進んだ。

 

 歩くたびに、視界が揺れた。照明のない暗がりのはずなのに、何かが見えていた。

 

 それは、“彼女”の視界だった。

 

 足音が、二重に響く。

 ひとつは僕のもの。もうひとつは、誰かの記憶。

 

 セーラー服の袖が視界の端にちらついた。

 白い手。細い指。壁を這うようにして歩いている。あるいは、逃げている?

 

 「もう、すぐそこ」

 

 また、声がした。

 今回は確実に、身体の内側からだった。

 

 自分の思考と重なりながら、微妙に違うリズムで響いてくる。

 

 “アカリ”。

 その名が、まるで呼吸のように、意識の端に浮かんだ。

 

 ふいに視界が“切り替わる”。

 

 気づけば、僕は――いや、“彼女”は、ある部屋の前に立っていた。

 コンクリートの壁。白く塗られた金属の扉。鍵穴には乾いた血の痕。

 

 ドアノブに手をかける。開かない。だが、扉が呼吸しているようだった。

 そこには、確かに“何か”がいた。

 

 僕は、いや、アカリは、その扉の前で立ちすくんだ。

 内臓がきしむ。何かが身体の奥で泡立つ。熱と冷気が入り交じる。

 

 「……もう、わたしじゃない」

 

 その声が聞こえた瞬間、頭の中で何かが“ぶちっ”と切れた。

 

 全身が、別の生き物のように痙攣する。

 骨が軋む。視界が白黒に明滅する。

 

 「っ……あ……ああ……っ」

 

 声にならない声が喉を焼いた。

 

 そのとき、誰かが肩を掴んだ。

 

 ナギだった。

 

 彼は片手で僕を引き寄せ、もう片方の手で何かを呟いた。

 その言葉は、意味を持たない呪文のように聞こえたが、たしかに僕の頭の中の“ノイズ”を散らせた。

 

 視界が戻る。

 足元が安定する。

 呼吸の仕方を、ようやく思い出した。

 

 「……いま……」

 

 僕は、自分の声を確認するように呟いた。

 

 「僕は……アカリだった」

 

 ナギは、目を細めていた。あの、無感情な彼の中に、わずかな焦燥が見えた。

 

 「彼女の意識が、君に近づいている。いや、正確には……君が、彼女の“記憶の回路”を再生してしまっている」

 

 「じゃあ……彼女は……まだ、ここに?」

 

 ナギは頷かなかった。ただ、冷静に言った。

 

 「この場所に染み込んだ記憶は、彼女の意識そのものに限りなく近い。だからこそ、君は“彼女の一部”に巻き込まれる」

 

 僕は震えていた。

 それが寒さからなのか、恐怖なのか、自分でも分からなかった。

 

 ――私は誰なのか。

 そう問いかける度に、鏡の中の自分が遠ざかっていく。

 

 僕は、日向だ。

 だけど、この身体はアカリのものだ。

 

 そして今、心の奥底から、彼女の声が、彼女の記憶が、まるで泥のように浮かび上がってくる。

 

 「お前の中の“獣”も、目覚めかけている」

 

 ナギのその声は、まるで警告のように響いた。

 

 獣――それは本能だ。

 欲望だ。

 理性という仮面の奥に潜んで、血を、傷を、痛みを、そして他者を欲しがるもの。

 

 この身体が、それを宿しているなら、僕は一体、何者なのだろう。

 

 この場所で呼ばれた“声”は、彼女のものだったのか?

 それとも、“僕の中の何か”が僕自身に呼びかけていたのか?

 

 答えはまだ出ない。

 けれど確かなのは、

 ――僕はもう、彼女の記憶から抜け出せない。

 

 血が記憶を運ぶなら、

 この肉体の奥底にあるすべてが、

 僕をアカリへと、導いている。

 

 僕は、それを拒むことができない。

 

 なぜなら、そこに“名前”があるからだ。

 

 僕のものではないはずの名前が、

 それでも確かに、僕を呼んでいた。

 

 ――アカリ。

 

 名前とは、呼ばれるためにあるのではない。

 名付けられることで、私たちは“誰か”になるのだ。

 

 もし誰にも呼ばれなければ、存在は確定しない。

 自己とは、他者との関係の中に生成される“記号”のようなものだ。

 

 その意味では、僕はもう、“彼女”と同一化を始めているのかもしれない。

 

 「僕じゃない、私」

 

 口に出した瞬間、喉の奥で別の響きが共鳴した。

 それは、懐かしさにも似た苦しさだった。

 

 「君はどちらでもない。そして、どちらでもある」

 

 ナギの声が、石壁の向こうから聞こえてくる。

 

 彼は少し距離を取っていた。恐れているのか、見守っているのか、それは分からなかった。

 

 だがその距離すら、もう現実味を持たなかった。

 この空間では、“誰か”と“自分”の区別すら融解していく。

 

 自我とは、連続する記憶の流れと、それに付随する意識の“主観”である。

 だとすれば、主観が共有される瞬間に、人格は崩れる。

 

 僕の“主観”が揺れている。

 目に見えるものが、皮膚に触れるものが、確実に“彼女の記憶”と重なり始めている。

 

 「わたしは……誰かの記憶の中で、もう一度、生きているの?」

 

 問いのようで、告白のようでもあった。

 

 ナギは答えなかった。

 

 だから、僕は深く息を吐いた。

 

 そして、再び歩き出した。

 

 この声の先に、“私”がいる気がした。

 たとえそれが、二度と帰れない場所だとしても。

 

 僕は、そのまま、沈むように闇の底へと進んでいった。

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