血よりも深く ―地方都市“黒神ヶ淵”異譚―   作:くにゅたろ

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第3章 第6話:目覚めた獣

 

 その瞬間、空気が凍った気がした。

 

 背骨の奥で、何かが裂けた。硬い膜が破れるような、乾いた音とともに、激痛が駆け上がる。肺が押し潰され、喉が焼けつく。息を吸うことさえ忘れてしまいそうだった。

 

 「っあ、あああ……!」

 

 僕は、声にならない声を吐き出していた。床に膝をつく。手が震える。指の関節がひとつずつ軋む音を立てて外れていく。体の外へと、何かが突き出していた。

 

 ――背中だ。

 

 肩甲骨のあたりが、膨らみ、破れ、皮膚の裏側から“別のもの”が生まれてくる。骨ではない。筋肉でもない。もっと黒く、鋭く、熱い“衝動”だった。

 

 視界が赤く染まる。

 

 いや、染まったのではない。僕自身の眼球が、内側から発光していたのだ。

 

 「ひ、ひなた……!」

 

 ナギの声が、遠くで叫ぶ。

 

 でも、僕の耳はそれを正確に捉えていなかった。ただ、響きとして捉えていた。意味を持つ音ではなく、世界の振動のような存在として、僕の脳髄に届いていた。

 

 僕の中で、何かが目覚めた。

 

 それは、獣だった。

 

 理性でも、思考でもない。感情でもなかった。もっと本能的な、“食べる”こと、“壊す”こと、“生きる”ことへの異常な執着。牙が生え、爪が伸びる。

 

 僕は、誰かを探していた。

 

 血の匂いを。

 

 柔らかな皮膚と、温かな内臓を。

 

 「……来るな!」

 

 咄嗟に、誰かが叫んだ。

 

 たぶん、それはナギだった。

 

 でももう、僕の目にはナギすら“人間”として映っていなかった。

 

 眼の奥で、世界が“捕食対象”へと変わっていく。

 

 ナギが手を差し出した。

 

 その手首を、僕は無意識に掴んでいた。

 

 「っ……!」

 

 唇が裂ける。牙が伸びる。頬の奥にある腺から、灼けるような液体が分泌される感覚。吸血衝動が、肉体からの命令として噴き出していた。

 

 そして――僕は、ナギの腕に牙を立てた。

 

 その瞬間。

 

 世界が、崩れた。

 

 甘かった。

 

 熱かった。

 

 濃密だった。

 

 ナギの血は、僕のすべてを焼いた。理性、思考、記憶。そのすべてが、一瞬だけ、快楽の熱に溶けた。

 

 それは、確かに“快感”だった。

 

 あまりに強烈な。

 

 目の奥が弾けるような、心臓が拡張するような。痛みと混じっていたはずなのに、苦しみとは違った。

 

 その瞬間、思った。

 

 ――このまま、壊れてもいいかもしれない。

 

 僕の中で、誰かが囁いた。それはアカリの声かもしれないし、もっと別の、“本能”そのものかもしれない。

 

 血は、情報を運ぶ。

 それは都市伝説として知識として語られてきたが、今、僕の中で現実の感覚として生きている。

 

 血の中には、記憶がある。

 痛みも、愛も、恐れも、欲望も。

 

 だから、それを飲んだ瞬間、僕はナギの感情の残滓に触れたような錯覚を得た。

 

 ――君を救いたい、という強烈な願い。

 

 その想いすら、僕の喉を焼いて、内側に沈んだ。

 

 ナギの手が、僕の頬に触れた。

 

 「戻ってこい、日向……!」

 

 その声に、僕は引き戻された。

 

 震えながら、血に濡れた唇を離す。

 

 呼吸が、やっと、肺に戻ってきた。

 

 「……な、に……これ……」

 

 膝を抱え込むように、僕は床に崩れ落ちた。

 

 自分の手を見た。

 

 人間のそれではなかった。

 

 黒く、鋭く、何かを裂くためだけに存在する“道具”だった。

 

 「これ……俺じゃない。でも……気持ちよかった」

 

 呟いた言葉に、自分で震える。

 

 だが、否定することができなかった。

 

 人間の倫理は、肉体の反応には抗えない。

 これは善悪ではなく、生存と快楽の話なのだ。

 

 エピクロスは言った。

 「快楽こそが善である」と。

 しかし、彼は同時に「不安のない状態こそが最高の快楽」とも語った。

 

 ならば、いま僕が感じているこの“甘さ”は、何なのか。

 これは、不安だ。

 けれど、快楽だ。

 

 矛盾は、僕を裂く。

 そして、その裂け目から、“獣”が顔を覗かせる。

 

 ナギは何も言わなかった。ただ、ゆっくりと手袋をはめ直しながら、僕の隣に腰を下ろした。

 

 「お前はもう、人間に戻れないかもしれない」

 

 その言葉は、呪いのようだった。

 

 でも、僕は、頷くしかなかった。

 

 痛みと快楽の境目が、もう分からなくなっていたから。

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