その瞬間、空気が凍った気がした。
背骨の奥で、何かが裂けた。硬い膜が破れるような、乾いた音とともに、激痛が駆け上がる。肺が押し潰され、喉が焼けつく。息を吸うことさえ忘れてしまいそうだった。
「っあ、あああ……!」
僕は、声にならない声を吐き出していた。床に膝をつく。手が震える。指の関節がひとつずつ軋む音を立てて外れていく。体の外へと、何かが突き出していた。
――背中だ。
肩甲骨のあたりが、膨らみ、破れ、皮膚の裏側から“別のもの”が生まれてくる。骨ではない。筋肉でもない。もっと黒く、鋭く、熱い“衝動”だった。
視界が赤く染まる。
いや、染まったのではない。僕自身の眼球が、内側から発光していたのだ。
「ひ、ひなた……!」
ナギの声が、遠くで叫ぶ。
でも、僕の耳はそれを正確に捉えていなかった。ただ、響きとして捉えていた。意味を持つ音ではなく、世界の振動のような存在として、僕の脳髄に届いていた。
僕の中で、何かが目覚めた。
それは、獣だった。
理性でも、思考でもない。感情でもなかった。もっと本能的な、“食べる”こと、“壊す”こと、“生きる”ことへの異常な執着。牙が生え、爪が伸びる。
僕は、誰かを探していた。
血の匂いを。
柔らかな皮膚と、温かな内臓を。
「……来るな!」
咄嗟に、誰かが叫んだ。
たぶん、それはナギだった。
でももう、僕の目にはナギすら“人間”として映っていなかった。
眼の奥で、世界が“捕食対象”へと変わっていく。
ナギが手を差し出した。
その手首を、僕は無意識に掴んでいた。
「っ……!」
唇が裂ける。牙が伸びる。頬の奥にある腺から、灼けるような液体が分泌される感覚。吸血衝動が、肉体からの命令として噴き出していた。
そして――僕は、ナギの腕に牙を立てた。
その瞬間。
世界が、崩れた。
甘かった。
熱かった。
濃密だった。
ナギの血は、僕のすべてを焼いた。理性、思考、記憶。そのすべてが、一瞬だけ、快楽の熱に溶けた。
それは、確かに“快感”だった。
あまりに強烈な。
目の奥が弾けるような、心臓が拡張するような。痛みと混じっていたはずなのに、苦しみとは違った。
その瞬間、思った。
――このまま、壊れてもいいかもしれない。
僕の中で、誰かが囁いた。それはアカリの声かもしれないし、もっと別の、“本能”そのものかもしれない。
血は、情報を運ぶ。
それは都市伝説として知識として語られてきたが、今、僕の中で現実の感覚として生きている。
血の中には、記憶がある。
痛みも、愛も、恐れも、欲望も。
だから、それを飲んだ瞬間、僕はナギの感情の残滓に触れたような錯覚を得た。
――君を救いたい、という強烈な願い。
その想いすら、僕の喉を焼いて、内側に沈んだ。
ナギの手が、僕の頬に触れた。
「戻ってこい、日向……!」
その声に、僕は引き戻された。
震えながら、血に濡れた唇を離す。
呼吸が、やっと、肺に戻ってきた。
「……な、に……これ……」
膝を抱え込むように、僕は床に崩れ落ちた。
自分の手を見た。
人間のそれではなかった。
黒く、鋭く、何かを裂くためだけに存在する“道具”だった。
「これ……俺じゃない。でも……気持ちよかった」
呟いた言葉に、自分で震える。
だが、否定することができなかった。
人間の倫理は、肉体の反応には抗えない。
これは善悪ではなく、生存と快楽の話なのだ。
エピクロスは言った。
「快楽こそが善である」と。
しかし、彼は同時に「不安のない状態こそが最高の快楽」とも語った。
ならば、いま僕が感じているこの“甘さ”は、何なのか。
これは、不安だ。
けれど、快楽だ。
矛盾は、僕を裂く。
そして、その裂け目から、“獣”が顔を覗かせる。
ナギは何も言わなかった。ただ、ゆっくりと手袋をはめ直しながら、僕の隣に腰を下ろした。
「お前はもう、人間に戻れないかもしれない」
その言葉は、呪いのようだった。
でも、僕は、頷くしかなかった。
痛みと快楽の境目が、もう分からなくなっていたから。