血よりも深く ―地方都市“黒神ヶ淵”異譚―   作:くにゅたろ

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第4章:獣の記憶
第4章 第1話:夢の中の少女


 

 霧が、世界を縫い合わせるように、静かに降りていた。

 

 僕はその中に立っていた。正確に言えば、「誰か」の夢の中に、僕の意識が浮かんでいた。足元は、瓦礫と土埃にまみれた床。壁のひび割れには錆びたパイプが走り、天井のどこかから、水滴がぽた、ぽたと、均等に落ちる。

 

 その音が、時間を刻むようだった。

 

 視線を前に向けると、ひとりの少女がいた。

 

 黒髪の長い、うつむいた少女。肌は灰色がかって、白いというよりは、光を失っている。肩は震えていた。手には爪があった。鋭く、汚れ、そして血に濡れている。

 

 ――あれは、アカリ。

 

 という感覚があった。

 

 でも、僕はその名を、夢の中では呼ばなかった。

 

 彼女は壁に爪を立てていた。細く、硬質な音が、石壁を擦るたびに響く。「カリ、カリ」と、まるで獣が檻の外を掘るように。

 

 「わたしは……もう、いらないんだよ」

 

 かすれた声だった。けれど、それは間違いなく届いた。まるで、夢そのものが僕の脳に直接話しかけてくるような、輪郭をもたない振動だった。

 

 彼女は振り向かない。涙も見えない。ただ、肩だけが、絶え間なく震えていた。

 

 僕は近づこうとした。だが、足が動かない。

 

 そのとき、アカリが振り返った。

 

 その顔は、僕のものだった。

 

 ――否。僕の顔ではない。だが、知っている。

 

 彼女が泣いていた。血の涙だった。頬を流れるそれは、まるで目の奥をえぐるように流れていく。

 

 「ねえ、これ……あなたのもの?」

 

 彼女は、手のひらを開いた。

 

 そこにあったのは、黒く尖った爪。指からちぎれたそれは、なおも微かに震えていた。

 

 僕は何も言えなかった。

 

 代わりに、爪の感触が、僕の指先に戻ってきた。夢の中なのに、痛覚があった。爪の裏が焼けるように熱い。

 

 「これ、返すね」

 

 彼女の唇が、音もなく動いた。返す?

 

 その直後、僕の背中に、突き刺すような衝撃が走った。

 

 目が覚めた。

 

 息が切れていた。呼吸が喉で引っかかり、咳とともに飛び出した。

 

 冷たい空気。光の入らない部屋。天井は見慣れない地下の天井――いや、見慣れてしまった、が正確かもしれない。

 

 それでも、息が整わない。

 

 目を伏せると、指先に、赤黒いものが付着していた。

 

 ――血。

 

 慌てて起き上がり、手を見る。爪ではない。だが、皮膚が、少し裂けていた。寝ている間に、壁でも引っ掻いたのか。

 

 だが、そこには爪痕が、はっきりと残っていた。

 

 「夢じゃ……なかったのか」

 

 呟きが、誰のものか分からなかった。僕自身か、アカリか、それとも……。

 

 脳裏に、あの声が、今もこだましていた。

 

 “わたしは もう いらない”

 

 あれは彼女の絶望だったのか。

 それとも、僕自身の感情が、彼女の姿を借りて形になったのか。

 

 夢と現実の境界は、もはや確かな線ではなかった。

 

 ベッドから降りて歩き出す。地下の照明はまだ暗い。足音が、自分のものではないように感じた。細く、軽く、しかし鋭く、コツ、コツと響く。

 

 まるで、自分の身体が、誰かの“演じる器”でしかないような、そんな感覚。

 

 哲学者なら、こう言うかもしれない。

 

 “思考すること”と“存在すること”は、別の問題だ。”と。

 

 僕は、確かに思考している。

 でも、それが「日向」という名前の存在に帰属するとは、限らない。

 

 名前とは何か?

 それは単なるラベルでしかないのか。

 それとも、自分が「そうであろう」と思い込むための呪いなのか。

 

 アカリ――その名前は、外から呼ばれたとき、まるで皮膚の下にある筋肉のように、自然と反応してしまう。

 

 呼ばれれば振り向き、問われれば答えてしまう。

 

 それが、習慣なのか、本能なのか。

 もはや僕には、判別できない。

 

 ただ確かなのは、この身体が、誰かの記憶と哀しみを、確実に保持しているということ。

 

 僕は、彼女の夢を見た。

 

 だが、それだけではなかった。

 

 目覚めた今、手のひらには、彼女の“痛み”が、残っていた。

 

 彼女はまだ、僕の中で、泣いている。

 

 そして、僕の身体を通して、“何か”を訴えようとしている。

 

 アカリ――君は、いまもここにいるのか?

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