光は、なぜあんなにも冷たく感じられるのだろうか。
理屈ではわかっている。可視光線には温度はない。ただ、それがどこから差し込んでくるかによって、あるいは、それを受け止めるこちら側の状態によって、光は質感を変える。
今、僕を照らしているこの薄暗い照明は、まるで地下実験室のような青白さを持っていた。
僕は、ベッドの上にいた。病院のような鉄製のフレーム。壁は無機質な白。天井は低く、蛍光灯が一つだけ、ゆるやかに明滅していた。
身体が重い。
いや、それは単に眠気とか筋肉痛とかいう問題ではない。もっと根本的に、“この身体”が“僕のものではない”という違和感だ。皮膚が皮膚ではなく、骨の配置がわずかに異なっているような、静かな不快感。
ゆっくりと上半身を起こす。
視界がぐらついた。重心の位置が変だ。肩幅が狭い。鎖骨が浮いている。
Tシャツのような白衣のような、薄い布がかろうじて身体を包んでいた。
僕は死んだのではなかったのか。
事故――あれは現実だった。クラクション、光、衝撃。あれは、確かに。
ならば、これは何だ? もしこれが“あの世”だというなら、あまりにも殺風景すぎる。
立ち上がる。足が細い。筋肉の付き方も違う。身長も、十センチ以上低い気がする。
鏡。視界の端に、鉄製のキャビネットの一部に嵌め込まれた鏡があった。
僕は、近づいた。息をひそめながら。
そして、見てしまった。
そこには、少女がいた。
正確には、“少女の顔”があった。長く、黒い髪。白く、細い頬。瞳は深い灰色。
僕は、その顔を知っている気がした。でも、それは僕ではない。
彼女の瞳が、僕を見ていた。
鏡の中の顔が、僕の動きに合わせて瞬きをする。口元がわずかに歪む。
この顔は、今、“僕の意志”に従って動いている。
では、この少女は、誰なのか。
そして、僕は、誰なのか?
哲学には、「テセウスの船」という思考実験がある。
一つの船の部品を、一つずつ新しいものと交換していったとする。すべての部品が入れ替わったとき、それは“同じ船”と言えるのか?
今の僕は、意識だけが“そのまま”で、肉体が完全に入れ替わっているとしたら、それは“僕”なのか?
手が震える。思考が回らない。喉が渇いていた。
僕は、ベッドの脇に置かれた金属製のワゴンに手を伸ばした。
そこに、小さなカードがあった。
白地に、黒い文字。
病院でよく見る、ネームタグのようなそれには、こう書かれていた。
――「アカリ」。
僕の名は、柊 日向。
少なくとも、事故に遭う前までは、そうだった。
この部屋の、このベッドに寝ていたこの“身体”の持ち主は、おそらく「アカリ」という名の少女だった。
しかし今、彼女の身体は、僕のものになっている。あるいは、僕がそこに“宿っている”。
これは憑依か? 転生か? それとも、より複雑ななにか?
もしかすると、これは“意識のコピー”にすぎないのではないか。
つまり、事故で死んだ僕の記憶や思考パターンを、誰かが模倣し、この身体に転写しただけ。
その場合、“本物の僕”はもう存在しないことになる。
僕は、“僕というデータ”でしかないのだ。
ぞっとするほど静かな部屋。誰も来ない。時計もない。外の気配もない。
僕は、鏡の前に座り込み、目の前の“顔”を見つめ続けた。
この顔は、確かに綺麗だ。
けれど、これは“僕”ではない。
僕の顔ではない。僕の声でも、肌でも、姿勢でもない。
けれど、僕がまばたきをすれば、この顔も瞬く。
僕が微笑めば、この唇がゆるむ。
そうだ――この顔は、もう“僕”なのだ。
では、「アカリ」はどこへ行った?
彼女の意識は? 魂は? 記憶は?
“僕”が彼女に取って代わったのだとすれば、彼女の存在は――消されたのか?
それは、殺人ではないのか?
“存在”を上書きすることは、果たして、殺すこととどう違う?
僕は震えた。鏡の中の瞳が潤んでいた。涙ではなかった。光の反射か、気のせいか。
口の中が乾いて、言葉が出なかった。
それでも、僕は問わずにはいられなかった。
この顔の“持ち主”は――どこへ行った?
そのとき、背後で“何か”が動いた気がした。
気のせいだと思いたかった。けれど、空気が僅かに揺れていた。
重い扉のような、遠くの足音のような、何かが、何かを、動かしていた。
僕は、ベッドの下にあったスリッパを履き、ゆっくりとドアの方へ歩き出す。
この場所を知らなければ。
この身体を、取り戻さなければ。
そして、アカリを――探さなければ。