「彼女は、あのとき……たしかに、人間を守ろうとした」
ナギの言葉は、まるで誰かの告解のように、静かだった。
部屋には、時計の音だけが響いていた。黒神邸の応接室。窓の外は霧に包まれていて、まるで外界が消えてしまったかのようだった。
僕は、彼の正面に座っていた。
テーブルの上には、紅茶があったが、どちらも手をつけていなかった。香りは時間とともに失われてゆく。それを眺めていると、まるで“記憶”の比喩のように思えた。
「どういう、こと……?」
喉が渇いていた。
だがそれは、血の渇きではない。言葉が渇いていたのだ。
ナギは目を伏せて、懐中時計を指でなぞる。その手の動きに、微かな震えがあった。
「……アカリが、黒神ノ穴に送られたのは、あの町の“浄化儀式”の一部だった。獣の血を引く者は、異端として処理される。それが、彼女の運命だった」
淡々とした口調だった。
ナギの声は、いつも理屈で編まれていた。けれど、その日だけは、言葉の奥に“熱”があった。
「でも、アカリは違った」
彼は顔を上げた。
その瞳は、銀の光を湛えていた。
「ある夜、施設の外にいた少女――親に捨てられた子を、アカリは自分の寝床に匿った。守ろうとした。その子の代わりに罰を受けて……肩を、斬られた」
その瞬間、僕の肩の傷がうずいた。
記憶が、流れ込んでくる。
――石の床。冷たい空気。少女の手が震えていた。
「動かないで」
幼い声が、静かに言った。
「大丈夫。すぐに、終わるから」
目の前には、まだ小さな子供がいた。
泣いていた。何も悪いことをしていないのに、ただ泣いていた。
その前に立ちはだかる影。
それは、アカリだった。
その背中は細く、震えていて、それでも、前に立ち続けていた。
――刃が、振り下ろされる。
痛み。
冷たい鉄のような感覚が、肩を裂いた。
だけど、アカリは、声を上げなかった。
小さな手が、震えながら、床に置かれた人形を拾った。
「これ、あなたの……大事なもの」
女の子は、アカリの差し出したそれを、恐る恐る受け取った。
そのときの、表情。
光でも影でもない、何か――祈りのようなもの。
記憶は、そこで途切れた。
僕は、ナギの顔を見た。
彼は、沈黙していた。
「アカリは、処理される側だった。でも……その夜、彼女は“人間”だったんだ」
僕の中で、何かが静かに揺れていた。
アカリという名前の、その輪郭が、ただの記録ではなくなっていた。
「……それでも、誰かを守ろうとしたのか」
それは、僕が昔、知っていた誰かの姿に重なった。
僕が守りたかった人。
でも、守れなかった人。
だからだろうか。
胸の奥で、静かに疼いた。
「アカリ……俺は、君のことを知りたい」
その言葉は、自分でも驚くほど自然に出てきた。
僕のものではないような声で、僕が発した。
それでも、それはきっと――僕の真実だった。
そして同時に、気づいたのだ。
“知りたい”というこの欲求自体が、彼女のものかもしれないということに。
知ることで近づきたい。近づくことで、触れたい。触れることで、癒したい。だが、そのすべてが届く前に失われてしまうのが、人間の営みだった。
僕は思う。アカリがあの少女に差し出した人形。それは単なる物ではなかった。彼女が、そのとき渡せる唯一の“記憶の媒介”だったのかもしれない。
言葉ではなく、物でもなく。
“想い”だけが伝わる方法。
それは、僕がいま彼女に向けている、この不可思議な感情と同じ性質のものだった。
つまり、僕はもう“他人”ではいられないのだ。
彼女の記憶を、感情を、痛みを――そして、願いを、少しずつ、自分の中に取り込んでいる。
それが怖くもあり、同時に救いでもあった。
「アカリ……君が、まだここにいるなら」
僕は、祈るように呟いた。
「……どうか、聞かせてほしい。君のことを。君が見た世界を」
その世界の色を、匂いを、触感を、僕はまだ何ひとつ知らない。けれど、知りたい。たとえそれが、血と痛みの中に沈んでいたとしても。