血よりも深く ―地方都市“黒神ヶ淵”異譚―   作:くにゅたろ

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第4章 第3話:アカリの感情

 

 「彼女は、あのとき……たしかに、人間を守ろうとした」

 

 ナギの言葉は、まるで誰かの告解のように、静かだった。

 

 部屋には、時計の音だけが響いていた。黒神邸の応接室。窓の外は霧に包まれていて、まるで外界が消えてしまったかのようだった。

 

 僕は、彼の正面に座っていた。

 

 テーブルの上には、紅茶があったが、どちらも手をつけていなかった。香りは時間とともに失われてゆく。それを眺めていると、まるで“記憶”の比喩のように思えた。

 

 「どういう、こと……?」

 

 喉が渇いていた。

 

 だがそれは、血の渇きではない。言葉が渇いていたのだ。

 

 ナギは目を伏せて、懐中時計を指でなぞる。その手の動きに、微かな震えがあった。

 

 「……アカリが、黒神ノ穴に送られたのは、あの町の“浄化儀式”の一部だった。獣の血を引く者は、異端として処理される。それが、彼女の運命だった」

 

 淡々とした口調だった。

 

 ナギの声は、いつも理屈で編まれていた。けれど、その日だけは、言葉の奥に“熱”があった。

 

 「でも、アカリは違った」

 

 彼は顔を上げた。

 

 その瞳は、銀の光を湛えていた。

 

 「ある夜、施設の外にいた少女――親に捨てられた子を、アカリは自分の寝床に匿った。守ろうとした。その子の代わりに罰を受けて……肩を、斬られた」

 

 その瞬間、僕の肩の傷がうずいた。

 

 記憶が、流れ込んでくる。

 

 ――石の床。冷たい空気。少女の手が震えていた。

 

 「動かないで」

 

 幼い声が、静かに言った。

 

 「大丈夫。すぐに、終わるから」

 

 目の前には、まだ小さな子供がいた。

 

 泣いていた。何も悪いことをしていないのに、ただ泣いていた。

 

 その前に立ちはだかる影。

 

 それは、アカリだった。

 

 その背中は細く、震えていて、それでも、前に立ち続けていた。

 

 ――刃が、振り下ろされる。

 

 痛み。

 

 冷たい鉄のような感覚が、肩を裂いた。

 

 だけど、アカリは、声を上げなかった。

 

 小さな手が、震えながら、床に置かれた人形を拾った。

 

 「これ、あなたの……大事なもの」

 

 女の子は、アカリの差し出したそれを、恐る恐る受け取った。

 

 そのときの、表情。

 

 光でも影でもない、何か――祈りのようなもの。

 

 記憶は、そこで途切れた。

 

 僕は、ナギの顔を見た。

 

 彼は、沈黙していた。

 

 「アカリは、処理される側だった。でも……その夜、彼女は“人間”だったんだ」

 

 僕の中で、何かが静かに揺れていた。

 

 アカリという名前の、その輪郭が、ただの記録ではなくなっていた。

 

 「……それでも、誰かを守ろうとしたのか」

 

 それは、僕が昔、知っていた誰かの姿に重なった。

 

 僕が守りたかった人。

 

 でも、守れなかった人。

 

 だからだろうか。

 

 胸の奥で、静かに疼いた。

 

 「アカリ……俺は、君のことを知りたい」

 

 その言葉は、自分でも驚くほど自然に出てきた。

 

 僕のものではないような声で、僕が発した。

 

 それでも、それはきっと――僕の真実だった。

 

 そして同時に、気づいたのだ。

 

 “知りたい”というこの欲求自体が、彼女のものかもしれないということに。

 

 知ることで近づきたい。近づくことで、触れたい。触れることで、癒したい。だが、そのすべてが届く前に失われてしまうのが、人間の営みだった。

 

 僕は思う。アカリがあの少女に差し出した人形。それは単なる物ではなかった。彼女が、そのとき渡せる唯一の“記憶の媒介”だったのかもしれない。

 

 言葉ではなく、物でもなく。

 

 “想い”だけが伝わる方法。

 

 それは、僕がいま彼女に向けている、この不可思議な感情と同じ性質のものだった。

 

 つまり、僕はもう“他人”ではいられないのだ。

 

 彼女の記憶を、感情を、痛みを――そして、願いを、少しずつ、自分の中に取り込んでいる。

 

 それが怖くもあり、同時に救いでもあった。

 

 「アカリ……君が、まだここにいるなら」

 

 僕は、祈るように呟いた。

 

 「……どうか、聞かせてほしい。君のことを。君が見た世界を」

 

 その世界の色を、匂いを、触感を、僕はまだ何ひとつ知らない。けれど、知りたい。たとえそれが、血と痛みの中に沈んでいたとしても。

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