血よりも深く ―地方都市“黒神ヶ淵”異譚―   作:くにゅたろ

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第4章 第4話:混線する名前

 

 道の端に、滑り込むように差し出された声があった。

 

 「すみません、アカリさん?」

 

 僕は反射的に振り向いていた。

 

 その声が自分の名前ではないことを、理解するまでに数秒かかった。その間に、僕の喉は音を作り、目はその声の主を探し、身体はわずかに前のめりになっていた。すべての反応が、「アカリ」という名前に正しく応答していた。無意識に。

 

 そこにいたのは、小さな男の子だった。まだ小学二、三年くらいだろうか。上履きのような白いスニーカーを履いていて、ランドセルの紐が肩から滑り落ちかけている。

 

 僕は、彼の大きな瞳を見つめたまま、返事をした。

 

 「……なに?」

 

 それが“僕”の声だったのか、“アカリ”の声だったのか。区別がつかなかった。

 

 男の子は地図のようなプリントを差し出しながら道を聞いてきた。話しているうちに、僕はだんだんと正気を取り戻し、ぎこちなく微笑むことができた。けれど、僕の頭のどこかではずっと別の回路が作動していた。

 

 ――どうして、返事をした?

 

 僕の名は、柊日向。アカリは、この身体の“前の所有者”にすぎない。

 

 だが、声は応えた。

 

 それは単なる条件反射だろうか? だとすれば、反射神経まで“彼女”のものに書き換わっている?

 

 歩きながら、僕は自己問答を繰り返した。

 

 この身体に刻まれた“習慣”は、感覚の領域に染み込んでいる。声をかけられれば反応する。呼ばれれば振り向く。そういった一連の流れは、脳の命令を必要としない。

 

 でも、これはそれだけだろうか?

 

 「アカリ」と呼ばれて、反応することに“快”を感じた気がした。まるで、自分の名前を肯定されたような、どこか懐かしいような。

 

 自分の名前でないのに。

 

 ナギの家に戻ると、彼はいつものように椅子に座っていた。左手には古びた手帳、右手には紅茶のカップ。

 

 「君の声が、変わってきてる」

 

 彼は本を閉じずに言った。

 

 「声?」

 

 「抑揚とか、呼吸の仕方。それに、視線。以前はもっと“直線的”だった。でも今は、カーブを描いてる」

 

 ナギの言うことは抽象的だ。でも、彼の言葉には感覚の裏付けがある。科学というより、呪術のような精度で。

 

 僕は無言で頷いた。

 

 「君がアカリでないのは、事実だ。だけど、アカリが君の中にいるのも、また事実なんだよ」

 

 その言葉は、落ち着いた声だった。

 

 ナギは続けた。

 

 「魂、というと胡散臭いが、記憶というのは形を持たない肉体の部品だ。血や骨と同じくらい、肉体を定義する。記憶は、思い出す人間の形も変えてしまう。ときに、言葉さえ変える」

 

 僕は思い返す。あのときの男の子を。

 

 そして、自分の返事を。

 

 確かに、僕はそれを“自然”と感じていた。違和感よりも、納得感の方が強かった。

 

 「……俺の中の“アカリ”が、今も生きているんだな」

 

 呟いた声は、たしかに僕のものだった。

 

 でも、それは“僕だけ”のものじゃない。

 

 その夜、夢の中で、僕はまた彼女の名前を呼ばれていた。

 

 “アカリ”、と。

 

 そして、僕はまた、返事をした。

 

 「はい」と。

 

 僕の中で、アカリは眠っている。だが、それは死んでいるのとは違う。むしろ、彼女の意識は、僕の深部を穏やかに侵食してきている。まるで、地下水のように。

 

 どこまでが僕で、どこからが彼女なのか。境界は、朝霧のように揺らいでいる。

 

 「俺は日向。でも……アカリでもある、のか?」

 

 その疑問は、はじめて「自分」について考えたあの日よりも、鮮明だった。

 

 思えば、名前というのは、最初に与えられる“他者からの定義”だった。

 

 赤ん坊の頃、自分に名前をつけたのは自分ではない。他人が勝手に定義した音列が、自我の看板になった。それはいつの間にか、アイデンティティとして染み込んでいく。

 

 でも、もし途中で名前が変わったら? それを呼ばれる回数が増えていけば? やがて、それを“自分”だと思い込むようになってしまうのではないか。

 

 僕は、“アカリ”と呼ばれることで、彼女になろうとしているのかもしれない。

 

 あるいは、彼女が僕になろうとしているのか。

 

 その境界線は、曖昧で、甘美で、そして恐ろしい。

 

 たとえば、「スワンプマン」は、元の人間のコピーであるとされる。だが、コピーされた瞬間、そこにあるのは“本人と同じ記憶を持つ他者”だ。では、今の僕は、アカリという存在の“スワンプマン”なのだろうか。

 

 記憶が引き継がれ、身体が残っている。意識の座だけが、入れ替わっている。

 

 それでも、人はそれを“同じ人間”と呼ぶのか。

 

 夜風が、カーテンを揺らした。ナギの紅茶の香りがかすかに流れる。

 

 僕は、指先で机を叩いた。

 

 「この世界で、自分が誰かを定義することほど、不確かなものはないんだな」

 

 それだけは、今の僕でもわかる。

 

 けれど、わからないからこそ、先へ進みたいと思うのかもしれなかった。

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