血よりも深く ―地方都市“黒神ヶ淵”異譚―   作:くにゅたろ

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第4章 第5話:日向か、アカリか

 

 鏡の中の自分を、何分間見つめていたのか、定かではない。

 

 部屋は静かだった。ナギの書斎にある古びた姿見。曇った鏡面にぼんやりと映るその顔が、最初は自分のものだと思えなかった。

 

 黒い髪は、波のように肩を超えて流れている。頬は少し痩せて、目の下にはクマがあった。薄く開いた唇と、整った鼻筋。どれも、見慣れたはずの他人のパーツだった。

 

 だが、目だけは、僕を見返していた。否応なく。

 

 「俺は日向」

 

 口に出してみると、それはただの音だった。意味よりも先に響きが来る。名前とはそういうものだ。

 

 「でも、この顔は……彼女のものだ」

 

 言った直後に、否定の気配が喉元を塞いだ。

 

 “彼女”と呼ぶことで、自分から遠ざけようとした。

 

 それでも、僕はこの顔で笑い、この手で物を掴み、この足で歩いている。誰かが見れば、「アカリさん」と呼ぶだろう。僕が否定しても、それは彼らにとっての“事実”になる。

 

 “事実”とは、観測者が構成する幻想だ。スワンプマンの思考実験において、本物と偽物の差は、観測者にとって無意味になる。再構成された身体に、元の魂がないと証明できない限り、外見上の差異は定義されない。

 

 僕がアカリの顔をしている限り、僕はアカリなのだ。少なくとも、他人にとっては。

 

 そして、問題はそこにある。

 

 他人がそう思うとき、僕の内側にも、その像が侵入してくる。

 

 やがて、自己像と外部からの投影が一致してしまうとき、僕の“日向”という定義は希薄になる。

 

 「アカリ」と呼ばれて、返事をする自分。

 

 「アカリ」として、過去の記憶を夢見る自分。

 

 「アカリ」として、傷を疼かせる自分。

 

 それらはもう、日向の思い出ではない。

 

 僕は、彼女の歴史を“受け入れ”はじめている。

 

 ふと、鏡の中の自分が、かすかに笑った気がした。

 

 唇が、僕の意識とは無関係に、わずかに上がった。目尻が、柔らかく歪んでいる。

 

 「……嘘だ」

 

 僕は息を飲んだ。

 

 だが、そこにあったのは、紛れもなく“僕の顔”だった。今や。

 

 変わったのは、顔ではない。僕の認識だった。

 

 その瞬間、ふと、声がした気がした。

 

 “痛いの、怖くないの?”

 

 女の子の声。小さく、震えていた。

 

 振り返っても誰もいない。だが、声は耳にではなく、脳に届いたようだった。

 

 「アカリ……?」

 

 誰にともなく問いかける。

 

 鏡の奥のその少女は、何も言わなかった。ただ、僕を見ていた。

 

 それが、まるで僕自身を見ているようで、僕ではないものを見ているようだった。

 

 「……俺がアカリに“乗っ取られている”のか、アカリが“俺”に宿っているのか、もう分からない」

 

 僕はぽつりと呟く。

 

 その声もまた、どこか自分のものではないような響きを帯びていた。

 

 だがそれは、決して不快ではなかった。

 

 むしろ、ほんの少しだけ安心している自分がいた。

 

 まるで、誰かに寄り添われているような。

 

 「……やっぱり、俺はもう、ひとりじゃないんだな」

 

 その言葉だけは、たしかに僕自身のものだった。

 

 そしてその夜、僕は夢の中で、もう一度アカリという名を呼ばれ、そして――振り向いた。

 

 記憶とは、脳内に再生される映像であり、真実ではない。事実を構成するものではなく、事実から逃げるための装置とも言える。だとすれば、僕が今「アカリの記憶」と思っているものが、彼女の真実だった保証は、どこにもない。

 

 だが、感じた痛み。胸の中に残る焦げつくような悲しみ。誰かを庇って倒れ込んだ、その刹那の白黒の残像――。

 

 それらが作り物であったとしても、僕の心は確かに反応している。

 

 “嘘の記憶”に、真実の涙が滲んだのだ。

 

 それが何を意味するのか、僕はまだうまく説明できない。

 

 けれど、それは少なくとも、僕の“現実”だった。

 

 「……俺は、日向。でも……」

 

 その続きを、声にはしなかった。することが、少し怖かった。

 

 けれど、心のなかでは確かに響いていた。

 

 “アカリでもあるのかもしれない”と。

 

 自己という輪郭は、こうして揺らいでいく。水面に映る月のように、触れようとすればするほど形を崩す。

 

 それでも僕は、その輪郭をなぞり続けるのだろう。

 

 たとえ、それが曖昧で、誰のものでなくなったとしても。

 

 名前という枠の中で、人は自分を定義しようとする。

 

 だが、定義が常に正しさを保証するわけではない。

 

 正しい名前で呼ばれるより、ただ“分かってくれる”存在のほうが、ずっと救いになる。

 

 アカリ――もし君がこの体のどこかにいるのなら。

 

 僕は、君の名前を、もう一度呼ぶことを怖れない。

 

 そして、もしまた振り向いてしまっても、それはきっと……間違いじゃない。

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