鏡の中の自分を、何分間見つめていたのか、定かではない。
部屋は静かだった。ナギの書斎にある古びた姿見。曇った鏡面にぼんやりと映るその顔が、最初は自分のものだと思えなかった。
黒い髪は、波のように肩を超えて流れている。頬は少し痩せて、目の下にはクマがあった。薄く開いた唇と、整った鼻筋。どれも、見慣れたはずの他人のパーツだった。
だが、目だけは、僕を見返していた。否応なく。
「俺は日向」
口に出してみると、それはただの音だった。意味よりも先に響きが来る。名前とはそういうものだ。
「でも、この顔は……彼女のものだ」
言った直後に、否定の気配が喉元を塞いだ。
“彼女”と呼ぶことで、自分から遠ざけようとした。
それでも、僕はこの顔で笑い、この手で物を掴み、この足で歩いている。誰かが見れば、「アカリさん」と呼ぶだろう。僕が否定しても、それは彼らにとっての“事実”になる。
“事実”とは、観測者が構成する幻想だ。スワンプマンの思考実験において、本物と偽物の差は、観測者にとって無意味になる。再構成された身体に、元の魂がないと証明できない限り、外見上の差異は定義されない。
僕がアカリの顔をしている限り、僕はアカリなのだ。少なくとも、他人にとっては。
そして、問題はそこにある。
他人がそう思うとき、僕の内側にも、その像が侵入してくる。
やがて、自己像と外部からの投影が一致してしまうとき、僕の“日向”という定義は希薄になる。
「アカリ」と呼ばれて、返事をする自分。
「アカリ」として、過去の記憶を夢見る自分。
「アカリ」として、傷を疼かせる自分。
それらはもう、日向の思い出ではない。
僕は、彼女の歴史を“受け入れ”はじめている。
ふと、鏡の中の自分が、かすかに笑った気がした。
唇が、僕の意識とは無関係に、わずかに上がった。目尻が、柔らかく歪んでいる。
「……嘘だ」
僕は息を飲んだ。
だが、そこにあったのは、紛れもなく“僕の顔”だった。今や。
変わったのは、顔ではない。僕の認識だった。
その瞬間、ふと、声がした気がした。
“痛いの、怖くないの?”
女の子の声。小さく、震えていた。
振り返っても誰もいない。だが、声は耳にではなく、脳に届いたようだった。
「アカリ……?」
誰にともなく問いかける。
鏡の奥のその少女は、何も言わなかった。ただ、僕を見ていた。
それが、まるで僕自身を見ているようで、僕ではないものを見ているようだった。
「……俺がアカリに“乗っ取られている”のか、アカリが“俺”に宿っているのか、もう分からない」
僕はぽつりと呟く。
その声もまた、どこか自分のものではないような響きを帯びていた。
だがそれは、決して不快ではなかった。
むしろ、ほんの少しだけ安心している自分がいた。
まるで、誰かに寄り添われているような。
「……やっぱり、俺はもう、ひとりじゃないんだな」
その言葉だけは、たしかに僕自身のものだった。
そしてその夜、僕は夢の中で、もう一度アカリという名を呼ばれ、そして――振り向いた。
記憶とは、脳内に再生される映像であり、真実ではない。事実を構成するものではなく、事実から逃げるための装置とも言える。だとすれば、僕が今「アカリの記憶」と思っているものが、彼女の真実だった保証は、どこにもない。
だが、感じた痛み。胸の中に残る焦げつくような悲しみ。誰かを庇って倒れ込んだ、その刹那の白黒の残像――。
それらが作り物であったとしても、僕の心は確かに反応している。
“嘘の記憶”に、真実の涙が滲んだのだ。
それが何を意味するのか、僕はまだうまく説明できない。
けれど、それは少なくとも、僕の“現実”だった。
「……俺は、日向。でも……」
その続きを、声にはしなかった。することが、少し怖かった。
けれど、心のなかでは確かに響いていた。
“アカリでもあるのかもしれない”と。
自己という輪郭は、こうして揺らいでいく。水面に映る月のように、触れようとすればするほど形を崩す。
それでも僕は、その輪郭をなぞり続けるのだろう。
たとえ、それが曖昧で、誰のものでなくなったとしても。
名前という枠の中で、人は自分を定義しようとする。
だが、定義が常に正しさを保証するわけではない。
正しい名前で呼ばれるより、ただ“分かってくれる”存在のほうが、ずっと救いになる。
アカリ――もし君がこの体のどこかにいるのなら。
僕は、君の名前を、もう一度呼ぶことを怖れない。
そして、もしまた振り向いてしまっても、それはきっと……間違いじゃない。