第5章 第1話:御園沙夜
空気の質が、変わった。そう感じたのは、廃神社の石段を下りきった直後だった。
黒神ヶ淵の空気は常に湿っていて、どこか水気を含んだ金属のような味がする。だが今、僕の背中を撫でたそれは、乾いた刃のようだった。風が、空気の分子一つひとつに警告を刻みこんでいた。
「……ついてきてる?」
問いかけたのは僕自身だった。だがその声は、自分のものではない気がした。身体が、警戒を先に覚えている。これは“本能”だ。彼女のものか、僕のものか、それすら曖昧なまま。
気配は、確かにあった。気配というより、“臭い”に近い。生ぬるい血の匂い。焼け焦げた肉の皮膚が焦げるような幻臭。
そして、それは目の前に現れた。
音もなく、気配もなく。だが確かに、そこに立っていた。
黒装束の女。
肩までの髪が無造作に切りそろえられ、右目は前髪に隠れていた。黒い戦闘服に似たコート。その左腕は、肘から先が金属だった。刃を秘めた義手。まるで獣の骨を模したような鈍い銀色。
「……お前、獣か?」
女の声は低く、だが乾いていた。威嚇でも侮蔑でもない。ただ、淡々とした確認のような。
僕は咄嗟に言葉を選び損ねた。
その隙に、彼女は動いた。
踏み込む音もなく、コートの裾が翻ったとき、彼女の義手が宙を裂いた。反射的に僕は身をひねる。だが、反応が遅れた。肩口に痛み。熱が滲む。
「ちっ、半分は人間か」
彼女は舌打ちした。
「でも、匂いが濃すぎる。吸血鬼……いや、人狼か。どっちでもいい」
再び義手が迫る。僕はそれを、転がるようにしてかわした。が、息が切れる。思考が追いつかない。
「やめろ……俺は、人間だったんだ!」
叫んだ。
それが、正確な情報かどうかはわからない。だが、叫ばずにはいられなかった。
女の義手が、寸前で止まった。
「だった?」
その言葉に、微かな興味が混ざっていた。
「……だった、ね」
女は肩をすくめた。まるで、無理な依頼を押しつけられた従業員のように。
「ふーん、そっちのタイプか。なるほど、話は通ってないわけだ」
彼女は懐から何かを取り出す。識別札のような金属のプレートだった。
「御園沙夜、教会所属、人狼狩り。まあ、今はフリーみたいなもんだけどね」
その言葉に、僕は何を返せばいいのか分からなかった。
「お前、かなり危険な存在だって言われてる。“アカリの残滓”とか、“黒神ノ穴の鍵”とか。まあ、都市伝説の材料には困らないみたい」
沙夜――そう名乗った彼女は、肩越しに僕を見て、にやりと笑った。
「でも、悪くない目をしてる。獣にしては」
その言葉の意味は、よくわからなかった。ただ、彼女の笑みに剣呑なものはなかった。あるいは、それが一番怖いのかもしれなかった。
「面白いじゃん。とりあえず、連れてくよ」
その言葉が、僕の“夜”の始まりだった。
夜の空は、まるで墨汁を薄めたように濁っていて、星も月も輪郭を失っていた。その中で、沙夜のシルエットだけが、妙にくっきりして見えた。彼女の存在が、この世界の“外側”にあるような気さえした。
歩きながら、彼女はふと立ち止まった。
「ねえ、さっきの“俺は人間だった”ってやつさ」
僕は警戒を解けぬまま頷く。
「……そういうの、一番厄介なんだよね」
「何が?」
「どっちにもなれないやつ。人間でも、獣でもない。だからこそ不安定で、どっちにも傾く。そういうのが一番、事故を起こす」
それは、経験から来る言葉だった。彼女の声の奥にある、妙な冷たさが、僕の背筋を刺した。
「お前、血を吸ったことある?」
突然の問いに、僕は答えを詰まらせた。
「……たぶん、ある。記憶が曖昧だけど」
「じゃあ、分かるでしょ。気持ちよかった?」
その問いは、あまりにも剥き出しだった。
僕は答えなかった。否定する気力も、肯定する誠実さも、今は持ち合わせていなかった。
沙夜はそれ以上は聞かず、ただ「ふーん」と呟いた。
「ま、どっちでもいいよ。お前が“気持ちよさ”で動くタイプか、“嫌悪”で動くタイプか、あたしが確かめてやる」
そう言った沙夜の横顔には、少しだけ笑みが戻っていた。それは、戦いを予感した者の顔だった。
僕は思った。
この夜は、終わらない。
そして、終わらせてはいけない夜なのだと。