血よりも深く ―地方都市“黒神ヶ淵”異譚―   作:くにゅたろ

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第5章 第2話:教会施設と“処置”

 

 沙夜に連れられて向かったのは、黒神ヶ淵の外れにある丘陵地だった。夜の道を歩く彼女の背中は、風よりも速く、影よりも確かだった。舗装の切れた山道を抜け、苔むした石段を上ると、廃墟のような洋館が月に照らされて浮かび上がった。

 

 「ここが教会?」

 

 僕の問いに、沙夜は肩をすくめる。「昔はそうだった。今は……まあ、処置場ってとこ」

 

 鉄の扉が重く軋む音を立てて開いた。中は驚くほど整頓されていて、白い壁と無機質な光が、まるで手術室のような寒々しさを漂わせていた。

 

 「そこ、座って」

 

 促されるまま、金属椅子に腰かけると、背後から冷たいベルトが身体を拘束した。

 

 「何を……」

 

 「念のため」

 

 沙夜はそう言って、淡々と何かの準備を始める。白いローブを着た男たちが数人現れた。彼らは無言で、幾何学的な紋様の描かれた器具を僕の前に置いた。

 

 「獣性の有無を調べる儀式だってさ。あたしはあんま信じてないけど、上がうるさくてさ」

 

 淡白な説明だったが、その奥にあるのは、儀式そのものへの忌避感か、それとも諦めか。

 

 器具の中心に赤黒い液体が注がれ、淡い光が立ち上った。

 

 「痛いのは一瞬。耐えて」

 

 そう言うなり、沙夜は僕の指先に小さな刃を当てた。皮膚が裂け、血が滲む。その血が、器具の中心に吸い込まれた瞬間――

 

 「……!」

 

 脳に、鋭い何かが突き刺さった。記憶が、混線する。誰かの怒り、誰かの絶望、誰かの死に際の恐怖。全部が、波のように押し寄せてくる。

 

 「やめ……ろっ……!」

 

 呻いた僕を、誰かが押さえつけた。息が苦しい。世界が反転する。

 

 「ストップ!」

 

 沙夜の怒声が響いた。

 

 次の瞬間、拘束が解かれた。僕は床に崩れ落ち、荒い呼吸を繰り返す。目の奥が焼けるように熱い。

 

 「こいつにこれ以上やったら、壊れる」

 

 沙夜は男たちを睨みつけた。彼らは一瞬たじろいだが、やがて何も言わずに去っていった。

 

 「……助けたのか?」

 

 僕はかすれた声で訊いた。沙夜は目を細めて、それでも静かに頷いた。

 

 「私はあんたを殺したくない。理由は……分からない。でも、ここから先は、あたしの責任で動く」

 

 その言葉は、静かだったが、どこか決意に満ちていた。

 

 「それって……俺を信じるってこと?」

 

 「違う。信じるってのは、もっと綺麗なもんさ。これは――執着。あたしが、自分の目で見届けたいだけ」

 

 沙夜の言葉は、どこか日向の心の奥に引っかかった。彼女もまた、自分と同じように“どちらでもない者”なのかもしれなかった。

 

 「お前が何者か、まだわかんないけど」

 

 沙夜は微笑んだ。

 

 「お前が“誰か”になる瞬間、あたしが立ち会ってやる。戦いってのは、そういうもんだろ?」

 

 その言葉に、僕は小さく頷いた。

 

 そして、それが僕と沙夜の関係の、始まりだった。

 

 

 

 その夜、僕は沙夜の案内で、教会施設のさらに奥へと連れて行かれた。地下へ続く石段は、まるで墓地に向かうような冷たさを持っていた。足音が壁に跳ね返り、記憶と現実の区別がつかなくなる。

 

 「ここ、昔は孤児の訓練場だったんだってさ。獣の血が混じってる子どもを、神の名のもとに“浄化”するための場所」

 

 沙夜は淡々と語った。だが、その声音の奥に隠された怒りのようなものを、僕は感じ取った。

 

 「浄化って……つまり、殺すってことか?」

 

 「うん。理性がないと判断されたら、躊躇なく。でもね、理性って、誰が決めるんだろうね?」

 

 彼女の言葉に、僕は返せなかった。自分の中にも、獣と呼ばれるべき衝動があった。それがどこから来て、どこへ向かおうとしているのか、まだ見えない。

 

 「私はね、昔ここで左腕を失った」

 

 沙夜は立ち止まり、自分の義手を見下ろした。

 

 「訓練中に暴走した“仲間”を止めようとして。でも、それは上から見れば“獣の庇護”だったらしい」

 

 「それで……教会を抜けたのか?」

 

 「うん。裏切り者ってレッテルを貼られて。でも、それでよかったのかも」

 

 沙夜は、ふっと笑った。乾いた、しかし優しい笑みだった。

 

 「私は、まだあいつを憎めてないから。あのとき暴走した“彼”を」

 

 その言葉の重さに、僕は沈黙した。彼女は過去と共に生きている。そして今、僕の中にもまた、知らない誰かが眠っている。

 

 「だからさ、日向。お前が誰かを“許したくなる”日が来たら、教えてよ」

 

 沙夜はそう言って、先を歩いた。僕は、その背中を見つめながら、自分の中で何かが音を立てて崩れた気がした。

 

 僕は人間だった。そして今、人間であることにしがみついている。

 

 それが、どこか滑稽にも思えた。

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