血よりも深く ―地方都市“黒神ヶ淵”異譚―   作:くにゅたろ

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第5章 第3話:訓練開始

 

 廃倉庫の扉が重くきしみながら開いた。そこはもともと駅の貨物集積所だったらしい。高い天井、むき出しの鉄骨、そして無数の影が、夜の光を拒絶していた。

 

 「ここで特訓?」

 

 僕の問いに、沙夜は無言で頷いた。彼女は、義手の指先で地面をトンと叩く。それだけで、何かが始まる気配があった。

 

 「武器は?」

 

 「使わない。まずは、お前の“素”を見る」

 

 素。つまり、意識せずに出る本能。それを観察するというわけか。僕は一歩、足を踏み出す。だがその瞬間、身体が重くなった。まるで空気の密度が増したように、全身の筋肉が沈み込む。

 

 「ここの空気、変じゃないか?」

 

 「うん。昔、吸血鬼が集団で“狩られた”場所だからね。念が染みてる」

 

 沙夜の声は軽いが、内容は重い。そういう場所での訓練を、彼女は敢えて選んでいる。理由はわからないが、それだけに、彼女の本気が伝わってくる。

 

 「動いてみて」

 

 彼女の声が、合図だった。

 

 気がつけば、僕は地面に叩きつけられていた。反射も何もなかった。動いたつもりが、既に倒されていた。沙夜はいつの間にか僕の背後に回り、義手の先端を僕の首筋に添えていた。

 

 「今ので死んでる」

 

 その冷淡な一言に、身体が震えた。怒りでも、恐怖でもない。ただ、自分の無力さに対する純粋な反応だった。

 

 「もう一度」

 

 僕は立ち上がる。意識的にバランスを整え、次の動きに備える。だが、それは無意味だった。

 

 再び倒された。今度は背中から鉄骨の支柱に叩きつけられた。

 

 「……っ」

 

 呼吸が、一瞬止まる。

 

 「考えるな。感じろ」

 

 沙夜の言葉は、どこか哲学のようだった。思考は時に、行動の妨げになる。それはエピクロスの「快楽原理」にも似ている。思考の快楽と、行動の快楽は異なる位相にある。

 

 「もう一度」

 

 僕は何度も立ち上がり、何度も叩きつけられた。やがて、身体が勝手に反応し始めた。回避、反撃、距離の取り方。意識とは別に、身体が“記憶している”。

 

 「あんた、本当に“誰かの戦い方”が染みついてるんだな」

 

 沙夜が、ポツリと呟く。

 

 僕の中の“誰か”。たぶん、アカリ。

 

 「……でもそれ、気持ち悪くないか?」

 

 問いかけに、僕は答えられなかった。気持ち悪い。しかし、同時に気持ちよくもある。それは、違和感と快感の交差点。生理的嫌悪と戦闘的快楽が、奇妙な混合物として僕の中に存在していた。

 

 「よし、じゃあ次は“血”を使うぞ。覚悟しろよ」

 

 沙夜が笑った。

 

 その笑顔は、姉のようで、狩人のようでもあった。

 

 そして僕は、その笑顔に、なぜか安堵を覚えてしまっていた。

 

 訓練の合間、僕は床に座り込んだ。呼吸が乱れ、額には汗が滲んでいる。だが、それ以上に気になるのは、身体の感覚だった。筋肉が、僕の意識とは別の論理で動いていた。まるで、自動運転に切り替わったような違和感と、しかし同時にスムーズな制御。

 

 「アカリは、どうやって戦ってたんだ?」

 

 自問のように呟いたが、答えは返ってこない。そもそも、僕が知るはずもない。ただ、彼女の“残響”が身体に刻まれていることだけは確かだった。

 

 「なあ、沙夜」

 

 僕は沙夜に問いかける。「戦うのって、気持ちいいか?」

 

 彼女は一瞬、黙った。そして、ゆっくりと頷いた。

 

 「気持ちいいよ。正直、快感だよ。筋肉が悲鳴を上げて、血が出て、でもその中で“生きてる”って感じる。おかしいよね」

 

 「……うん」

 

 共感してしまった自分に、少し驚いた。そして恐怖も覚えた。

 

 「だからさ、あんたの中に戦いの快感があるなら、否定しなくていい。でも、それを誰かに向ける前に、自分で確かめろ」

 

 沙夜の言葉は、静かに、深く響いた。

 

 僕は立ち上がった。次の一撃に備えるために。あるいは、自分の中の何かを確かめるために。

 

 戦いの中でしか見つけられない“自己”が、確かにそこにある気がした。

 

 訓練が終わる頃、僕の足元はふらついていた。膝は笑い、腕には無数の擦過傷が刻まれていた。けれど、不思議と痛みは鈍い。たぶん、どこかで快楽と結びつきはじめていたのだろう。

 

 「……立てるか?」

 

 沙夜の声は、いつになく優しかった。僕は頷く。立ち上がるには、理由なんて要らなかった。そこに敵がいる。もしくは、倒すべき何かが自分の中にある。それだけで、十分だった。

 

 「明日はもっと追い込むぞ」

 

 そう言って、沙夜は肩を叩いた。義手越しでも、その衝撃は不思議と暖かく感じられた。

 

 夜風が倉庫の隙間から吹き抜ける。湿った冷気が、僕の皮膚に貼りついた。ふと、アカリの名前が脳裏をよぎった。彼女は、こんな夜をいくつ越えてきたのだろうか。

 

 その答えは分からない。けれど、僕は今、確かに彼女の歩んだ軌跡の上に立っていた。

 

 だからこそ、踏みしめる。この足で、僕のものとして。

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