血よりも深く ―地方都市“黒神ヶ淵”異譚―   作:くにゅたろ

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第5章 第5話:痛みの学習

 

 痛みは情報である。神経の反応であり、信号であり、記憶の入り口だ。だとすれば、その痛みに快楽が付随するのは、記憶が「残したい」と願った結果だろうか。

 

 僕は膝をつき、左腕を見下ろした。訓練中に掠っただけの傷なのに、出血は思いのほか多い。皮膚が裂けて、肉の浅い層が覗く。視覚情報としてのそれは、確かに“痛い”はずだった。

 

 だが、脳はそう判断しなかった。

 

 それは痛みでありながら、同時に、“気持ちよかった”。

 

 「お前の顔、今……ちょっと笑ってたぞ」

 

 沙夜がこちらを見下ろして言った。声に皮肉はなく、どこか優しさが滲んでいた。

 

 「笑って……た?」

 

 「うん、たぶん無意識。でもな、あたしも覚えがあるんだよ。そういう時期が」

 

 沙夜は腰を下ろし、自身の義手を指先で叩いた。カン、という硬質な音が、倉庫の空気を割る。

 

 「この手を失ったときさ、痛みなんてなかった。代わりに、やけに静かでさ。むしろ、“ああ、これで一人じゃなくなるかもしれない”って思った」

 

 「……どういう意味?」

 

 「傷ってのは、他人に見せられる数少ない“真実”だよ。だから、あたしはその痛みに、ちょっとだけ希望を感じた」

 

 僕は目を伏せた。指先の血が、まだゆっくりと滴っている。その一滴一滴が、なぜか嬉しい。

 

 「お前はマゾだよ」

 

 唐突に沙夜が言った。笑いながら、だが目は真剣だった。

 

 「いや……違うと思う」

 

 「ほんとに? 痛みを求めてるくせに?」

 

 「……求めてるわけじゃ、ない。痛みが、俺を“自分”に戻してくれるだけだ」

 

 その言葉を、自分でも不思議に思った。でも、たしかにそう感じていた。

 

 痛い、という感覚。確かに、ここにいるという実感。意識の奥でアカリと混ざっていく自分を、引き戻す唯一の手段。

 

 「痛いってことは、“ここにいる”って感じがするんだよ」

 

 そう呟いたとき、沙夜は頷いた。やっと分かり合えたような、奇妙な親密感が流れる。

 

 「その言葉、あたしもよく使ってた。あんたとは、たぶん似てるとこがあるんだろうな」

 

 「似てる……?」

 

 「うん。あたしも、自分が“どこにいるか”わからなかった。血を流すまでは」

 

 沙夜の声は、少しだけ震えていた。だが、それを隠そうとはしなかった。

 

 その時、僕は思った。この人は、痛みを“理解している”だけじゃない。そこに意味を見出し、それを受け入れて生きている。

 

 僕にとっての痛みは、まだ“異物”だった。でも、それを通して誰かと繋がれるなら、悪くないかもしれない。

 

 「次は、お前が“殺す”番だ」

 

 沙夜が立ち上がった。血の匂いが、床から微かに立ちのぼっていた。

 

 訓練は、まだ終わらない。

 

 休憩のあいだ、沙夜は缶コーヒーを無造作に開け、僕に投げてよこした。空中で回転しながら、銀色の円筒が僕の胸元に吸い込まれるように収まる。中身はぬるくなっていたが、口に含むと、微かな苦味が神経を撫でた。

 

 「殺すって、言ったけどさ」

 

 沙夜は壁にもたれ、視線を遠くに投げた。

 

 「本当に“殺す”ことができた奴ってのは、そんなに多くない。戦って、勝って、でもそのあと……“やった”って思えるかどうかは別問題」

 

 「じゃあ、俺に“殺させる”のは、何のため?」

 

 「それを確かめさせるためだよ。お前が何を守るために戦うのか、それとも、何にも意味を見出さずに手を汚すのか」

 

 答えは、すぐには出せなかった。

 

 僕の中にある暴力性は、まだ名前を持っていない。それは“アカリ”の残滓かもしれないし、“日向”という人格の奥底に潜んでいた可能性もある。ただ確かなのは、それが目覚めつつあるという事実だけだった。

 

 「それともう一つ」

 

 沙夜は缶を空にしてから、地面にそっと置いた。

 

 「快楽は、境界を溶かす。痛みは境界を縁取る。お前は今、どっちに傾いてる?」

 

 その問いは、明らかに“正解”を求めていなかった。けれど、僕はそれに答えようとした。

 

 「……まだ、わからない。でも……両方、味わいたいと思ってる自分がいるのは確かだ」

 

 「いい答えだね」

 

 沙夜はそう言って、微笑んだ。笑顔に裏表はなかった。たぶん、僕の返事に少しだけ安心したのかもしれない。

 

 訓練が再開されたとき、風が倉庫の高窓から吹き込んできた。その空気は生ぬるく、まるで誰かがこちらを見ているような、妙な湿度を伴っていた。

 

 痛みは、また僕の中で、新たな形を取り始めていた。

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