血よりも深く ―地方都市“黒神ヶ淵”異譚―   作:くにゅたろ

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第5章 第6話:アカリの戦い方

 

 身体が、勝手に動いた。反射でもなく、予測でもなく、どこか遠くの記憶が、筋肉を通して命令を下しているかのように。それはまるで、別人の所作だった。

 

 沙夜の蹴りが飛ぶ。音を置いていくような動作。だが、それが届く前に、僕の腕は自然に上がり、肘で受けた。そして、反射的に左足が前へ。地面を蹴り返して、空気を切り裂いた。

 

 「おいおい、本気か?」

 

 沙夜の声が聞こえたとき、僕はすでに次の動作に入っていた。体重移動、膝のバネ、視界の端に見える彼女の髪の揺れ。すべてが同期して、僕の肉体を動かしていく。意識は、あとから追いかけるようについてくる。

 

 これは、僕じゃない。

 

 明らかに、僕の“戦い方”じゃない。

 

 「ちょっと待て……これって、」

 

 拳を握る感触が、“懐かしい”と感じた瞬間、背中に冷たい汗が流れた。懐かしい? 何が? 誰の感覚だ? 日向としての自分には、こんな戦いの記憶などない。アカリのものだ。――この身体に染みついた記憶が、僕を動かしている。

 

 「……まるで、“誰か”が乗ってるみたいだな」

 

 沙夜の声には、わずかな驚きと、ある種の感慨が滲んでいた。彼女は僕の動きに反応しつつも、本気で潰そうとはしていない。そのことに僕は気づいた。観察しているのだ。僕という“異物”が、どこまで変質しているかを。

 

 「アカリ……か?」

 

 口に出してみたその名前は、今や他人のものではないように思えた。僕は日向でありながら、彼女の影を背負っていた。いや、もしかすると、彼女こそが僕を背負っているのかもしれない。

 

 僕は跳ね、回転し、そして地面を滑るように移動した。沙夜のナイフが一閃するが、それを僕の右手が正確に掴む。反撃の意思などなかった。ただ、止めるという動作が、勝手に指先から湧き上がっていた。

 

 「お前……完全に覚醒しかけてるな」

 

 沙夜がつぶやく。その声は、少しだけ嬉しそうだった。

 

 「でも、それでいいのか?」

 

 問いかけだった。その意味を僕は咀嚼できなかった。思考の層がずれていた。今の僕は、問いかけに答えるより先に、身体の挙動を最適化するような状態にあった。まるで、生物兵器のスイッチが入っているような感覚。

 

 戦闘が終わったとき、僕は肩で息をしていた。呼吸が浅く、手の平がわずかに震えていた。それが“怖かった”からか、“興奮していた”からかは、もう分からなかった。

 

 「どうだった?」

 

 沙夜は、いつものように缶コーヒーを投げてよこした。今度はキャッチできなかった。僕の手は、まだ誰かのものだった。

 

 「……怖い。けど、嫌じゃなかった」

 

 「だろうな」

 

 沙夜は煙草に火をつけ、咥えながら煙を吐いた。

 

 「お前の中にいる“アカリ”ってのは、たぶん、まだ完全には消えてない。というか、お前自身が、もう“アカリ”の方に傾いてるんだよ」

 

 その言葉に、僕は返せなかった。否定すれば嘘になる。肯定すれば、日向ではなくなる。だが、第三の選択肢――つまり、曖昧であることを受け入れるということ――なら、今の僕には可能かもしれない。

 

 「俺、まだこの身体が“他人のもの”だって思ってた。でも、今日ちょっとだけ……」

 

 「自分のものに感じた?」

 

 「……うん」

 

 沙夜は、頷いた。その視線は、遠く過去を見ていた。

 

 戦いは終わったが、揺らぎは始まったばかりだった。

 

 倉庫の空気は重かった。天井の蛍光灯がジジジと音を立てながら明滅し、鉄骨の梁を這う影が、まるで意識の奥底をなぞるように揺れていた。

 

 僕は指先を見た。爪の下に乾いた血が残っていた。それは僕が流したものではない。沙夜の手首をつかんだ時、彼女の義手と本物の皮膚の境界で、ほんの少しだけ、出血したのだ。

 

 「これも、訓練の一部だと思ってくれりゃいい」

 

 そう言って沙夜は立ち上がり、背伸びをした。関節が、わざとらしいほど音を立てた。

 

 「この身体が、嫌いじゃなくなってきた」

 

 それは、僕の本心だった。身体の中に、誰かの痕跡があってもいい。動きが僕のものじゃなくても、今、ここにいるのは確かに僕だった。

 

 自分で自分を乗りこなすのではなく、誰かと共にこの身体を生きる。それは奇妙な共存であり、ある種の和解でもあった。

 

 そして、きっとまた血を見るだろう。痛みも、暴力も、そこにはある。でも、それが今の僕の“現実”ならば、そこから逃げることは意味がない。

 

 「明日もやるか?」

 

 沙夜が笑った。僕は、それに頷いた。

 

 訓練は、終わらない。終わらせない。それはたぶん、僕が僕であるための、唯一の儀式なのだ。

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