血よりも深く ―地方都市“黒神ヶ淵”異譚―   作:くにゅたろ

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第5章 第7話:この身体が好きだ

 

 訓練のあと、夜の静けさが訪れる。誰もいない浴場の湯気が、天井の低い灯りに触れて、ぼんやりと空間を満たしていた。タイルの床に座り、僕は身体を見つめていた。

 

 鏡の中の少女は、汗を拭っていた。細く、白い指。水滴が鎖骨をつたい、胸元で静かに揺れる。どこか現実感のない映像。それが“僕”であるという事実だけが、皮膚の上に留まり続けていた。

 

 「この身体、誰かのだったはずなのに……」

 

 呟いた声も、自分のものに聞こえなかった。高く、やや掠れている。聞き慣れた音の質ではなかった。だが、それはもう“違和感”ではなかった。

 

 湯船の縁に手をついて、立ち上がる。柔らかくも鋭く伸びた脚が、くるぶしまで湯気に濡れて光っていた。バスタオルを取る動作すら、どこか演技のようで――それでも、馴染んでしまっている。

 

 戦いのあとの疲労は、皮膚の奥に残っていた。筋肉の微かな震え。乾いた喉。心地よい疲れとも言えるそれは、快楽に近かった。

 

 血の味を思い出す。

 

 吸った瞬間、喉が震え、身体が熱を持ったあの感覚。誰かの生命が、自分の中へ入り込む奇妙な侵食。そしてその侵食を、どこかで歓迎している自分がいることも。

 

 気持ち悪い、と最初は思っていた。

 

 でも、今は違う。

 

 気持ち悪さが、自分の輪郭をはっきりと浮かび上がらせていた。その奇妙な“嫌悪”が、自分の“存在”を強調してくれる。快楽とは、ある種の輪郭強調機能なのかもしれない。

 

 「……気持ち悪い。でも……ちょっと、気持ちいい」

 

 もう一人の“僕”が、鏡の中で同じ言葉を呟いていた。

 

 アカリ。彼女の名を、心の中で呼ぶ。それはまるで、恋人の名を口にするような、奇妙な親密さと罪悪感が入り混じる行為だった。

 

 「本当に……俺は、アカリなのか?」

 

 その問いに、答える者はいない。だが、答えが必要なのだろうかとも思う。

 

 僕は日向だった。そして、アカリの記憶と身体を持っている。ならば、僕とは誰か? この身体が好きだと思った瞬間、その問いは哲学から感覚へと変化していった。

 

 哲学はいつも、概念の整理を求める。でも、“快楽”は、混濁を歓迎する。どちらも真理に触れようとする方法論なのだとすれば、僕は今、快楽の哲学を生きているのかもしれない。

 

 浴室の扉が微かに鳴った。誰かが外に立っている気配がする。

 

 「風、冷えるぞ」

 

 沙夜の声だった。気遣いというより、確認だった。

 

 「……もう少しだけ、このままでいたい」

 

 「そっか。じゃあ、外で待ってる。……焦らなくていいよ」

 

 その言葉に、どこか救われた気がした。

 

 照明の灯りが、鏡の中の“僕”を照らしていた。濡れた睫毛、艶のある唇、細い肩。どれもが、もう“他人”ではなくなりつつある。

 

 この身体を、否定する理由はもう、なくなっていた。

 

 バスタオルを巻いて更衣室へ向かう足取りは、どこか軽かった。自分の重さを、前ほどは違和感として感じなくなっていた。腰のくびれや胸の膨らみを意識して歩くことも、徐々に自然になっていくのかもしれない。

 

 着替えを終えたあと、沙夜と並んで缶コーヒーを飲んだ。廊下の窓からは夜の黒神ヶ淵が見えた。霧が薄く揺れていて、まるで町全体が夢の中にあるようだった。

 

 「なあ、沙夜」

 

 「ん?」

 

 「……俺、戻れない気がしてる」

 

 「人間に?」

 

 僕は首を振った。

 

 「“男”としても、“日向”としても」

 

 沙夜はすぐには答えなかった。けれど、彼女は優しい声で言った。

 

 「でも、今ここにいる“お前”は、ちゃんと生きてるじゃん。それだけで、十分だよ」

 

 その言葉が、何よりも救いだった。

 

 誰かにならなくてもいい。誰でもない“僕”でいられるなら、それでいい。

 

 夜風が、窓の隙間から吹き込んだ。冷たい空気が、今の僕には心地よかった。

 

 そして僕は、また鏡の中の自分を思い出した。

 

 この身体が、好きだ。

 

 その一言を、胸の奥で繰り返した。

 

 この身体が、好きだと言えたとき、ようやく僕は、ほんの少しだけ許されたような気がした。日向としても、アカリとしてもない、“ただの僕”として。

 

 誰かに強いられたわけでも、誰かに選ばれたわけでもない存在。それでも、自分の中にある輪郭のかたちを撫でるように確かめていく日々。それは、痛みと快楽の境界を歩くような、儀式だった。

 

 明日も訓練はある。傷も増える。血もまた、流れるだろう。

 

 でも、もう怖くはなかった。

 

 僕はこの身体と共に、生きていく。

 

 それだけは、はっきりと決まっていた。

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