血よりも深く ―地方都市“黒神ヶ淵”異譚―   作:くにゅたろ

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第3話:地下の扉

 

 静けさは音よりも重たい。

 それは、耳を塞ぐことができない種類の圧力だった。空気の濃度が違う。呼吸の回数をカウントされているような感覚。壁や床が、どこかのタイミングで“音を待っている”ように感じられる。

 

 僕は、廊下を歩いていた。

 施設――という言い方が正しいかどうかは分からない。無機質な鉄とコンクリート、規則的に配置された蛍光灯、剥き出しのパイプと床の金属格子。そのすべてが“人工”を主張していた。にもかかわらず、人工物に本来備わっているべき“目的”が見当たらない。

 

 ドアがあった。

 古びたスライド式。錆びついたレールに沿って、強く引けば開きそうな構造だった。けれど、僕は手を触れなかった。

 理由は明確ではない。なにか、そこに触れてはいけないという“構造的な違和感”があったのだ。

 

 先に進む。靴の音が金属を叩く。硬く、軽い反響。誰かの足音に聞こえる瞬間があった。つまり、自分の存在が他人のように響く空間だということだ。

 

 また一つ、扉。今度は引き戸式。手をかけると、きぃ、と鈍い音が響いた。

 この音には、時間が含まれていた。湿気と金属、わずかに発酵した何かの匂い。人のいない空間が、何かを隠し持っているとき、空気は必ず重くなる。

 

 その瞬間、視界がゆらいだ。

 というより、頭の中に何かが“揺れた”。

 

 「……っ、う……」

 

 頭痛。正確には、“記憶が物理的に頭を叩いてきた”ような痛みだった。

 フラッシュバック。だが、何の記憶かは曖昧だった。映像ではなかった。

 床。コップ。濡れた髪。誰かの背中。

 断片的な感覚だけが、脳の内部に音のように響く。

 

 この施設に、僕は来たことがあるのだろうか? 

 それとも、“この身体”が覚えているのか?

 

 「記憶は誰のものか?」という問いが頭をよぎる。

 記憶と意識は、どちらが“主体”なのか。スワンプマンのように、身体がまったく同じでも、記憶が異なるなら、それは他者だと言える。

 では、僕は? 僕の記憶が今、混線しているとすれば――僕は僕じゃなくなるのか?

 

 扉を開いた。

 

 その部屋には、空気の形があった。

 壁に掛けられた薄手のカーディガン。折りたたまれた毛布。デスクの上には文庫本。

 そして、マグカップ。白地に青い花の模様。中身は空。けれど、最近まで使われていたような温度の残像があった。

 

 「……生活……してた……?」

 

 思わず、声に出た。

 この部屋は、誰かが“いた”痕跡に満ちていた。廃墟ではない。放棄された空間ではない。そこには“息”のようなものが残っていた。

 

 僕は、そっと机の椅子を引いた。埃は薄く積もっていたが、一定の時間感覚の中にある。

 椅子に腰を下ろすと、自分の背筋がその空間に溶け込んでいくのを感じた。ここに“いた”誰かは、僕と同じ身長だったのかもしれない。

 もしくは、もっと直接的に――

 

 「この身体が……ここに?」

 

 カーテンが微かに揺れた。風はない。

 けれど、どこかで空気が流れているのを感じる。誰かが通り過ぎたのか。

 それとも、僕の感覚が“誰かの記憶”を読み取っているだけか。

 

 足元に、箱があった。プラスチックの収納ボックス。開けると、衣類。ブラウス、下着、制服のようなもの。

 この部屋は、「アカリ」の部屋だった可能性が高い。

 

 つまり、この部屋の記憶は、僕の“もの”ではない。

 なのに、懐かしいと感じる。匂いが、皮膚の裏に染み込んでくる。

 それは、“他人の過去”に共鳴するような気味の悪い親しさだった。

 

 「誰だ……?」

 

 僕は立ち上がり、部屋を見回した。

 カーペットの毛の向き。ティッシュの箱。照明のスイッチの位置。

 それらすべてが、使われていた。存在していた。消されていない。

 

 誰かがここに住んでいた。

 あるいは、まだ住んでいる。

 

 廊下の反響が止まった。誰かが立ち止まっている音がした気がした。

 けれど、振り返っても、誰もいなかった。

 

 「……ここに、誰かがいた」

 「……それが、“僕”だったのか?」

 

 自分の声が、部屋の空気に混ざっていく。

 返事はなかった。

 

 

 

 机の上に、閉じられたままのノートが一冊置かれていた。

 その隣には、写真立て――笑っている少女。見覚えのある顔。けれど、その笑顔は、明らかに“僕”ではなかった。

 

 この部屋の主は、アカリ。

 では、僕は――誰だ?

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