第6章 第1話:昼と夜の狭間で
陽の光が痛かった。久しぶりに街を歩いたせいではない。世界のコントラストが、まるで別の生き物のように脈動していたからだ。僕の網膜は、その波打つ明度の変化に付いていけなかった。
アスファルトの照り返し。子供の声。店先から流れるラジオ。すべてが“僕の死後”に生まれた別の時間のように感じられた。通りすがる人々の視線に、警戒の色はない。ただの一瞥。だがその無関心こそが、僕を確かに傷つけていた。
あの日、僕はトラックに轢かれた。物理的には一瞬だったけれど、その瞬間から、世界の文法が変わってしまったようだった。今、ここを歩いている僕は、もはや“あの頃”の僕ではない。
制服を着た少女が、路地の向こうを歩いていく。胸の奥が軋んだ。なぜか、涙腺の奥が熱くなった。その制服の形は、かつて僕が通っていた高校のものだった。
旧校舎の門の前で、足が止まる。意図したわけではなかった。身体が、なにかに引かれるように動いてしまった。
門は錆びていた。開いている。昼間なのに、誰もいない。職員も、生徒も、教師の姿も見えないのはおかしい。だが、僕は気にしなかった。むしろ、その静けさが心地よかった。
校舎の中は、記憶よりも狭く見えた。廊下の蛍光灯が、数本切れている。教室のドアが半開きで、風にゆれていた。誰かの話し声が、どこかで聞こえた気がした。
そのとき、廊下の奥から人の姿が現れた。
凛、だった。僕のクラスメイト。昼休みによく話していた。物静かで、本を読むのが好きな子だった。
僕は、思わず声をかけかけて――やめた。
彼女の視線は、僕を素通りしていった。まるで幽霊を見るような目。あるいは、最初から“僕”など見えていなかったのかもしれない。
そうだ、“僕”はもう、ここにはいない。
「“俺”は、もう誰にも見えない」
その独白が、胸の奥から漏れた。声にはならなかった。ただ、空気の粒子が震えたような気がした。
僕は静かに踵を返した。光が、背中に刺さるようだった。影だけが、僕を現実に繋ぎとめていた。
アカリ。
君は、この光景をどう見ただろう。
君は、ここで何を感じた? 誰に何を遺した? この身体に、記憶を、痛みを、名を、預けたのは何のためだったんだ。
足元に、ひとひらの花が落ちていた。校庭の隅の花壇から、風に吹かれて転がってきたのだろう。
白い、アネモネだった。
「アカリは……何を遺していったんだ?」
校舎を出てからも、僕の足はしばらく震えていた。震えは寒さではなかった。熱が奪われるのではなく、どこか芯から“存在”が剥がされていくような、そんな感覚だった。
町の雑踏が、遠く聞こえた。誰もがそれぞれの時間を持って歩いている。対照的に、僕には“時間”がなかった。流れているのは空気と、他人の生活だけ。僕の過去は止まっていて、未来は誰かのものだった。
通りの先にある書店のガラスに、ふと自分の姿が映った。セーラー服の少女が、無表情で立っていた。彼女は少し首をかしげ、髪を整えようともせず、ただ立ち尽くしていた。
その姿が、かつての自分とはまったく違うことに気づくまで、少し時間がかかった。鏡像の中にいるはずの“僕”が、“僕”でない何者かのように見えた。
「君は、誰だ?」
問いかけても、答えは返ってこなかった。
歩道橋の下で、自転車に乗った高校生たちが笑っていた。その声がなぜか、耳の奥を刺すように痛かった。
違う、と思った。僕は、彼らと同じ時間に属していない。そこに加われない。
だが、その孤独に、わずかな安堵もあった。切り離されたからこそ、考えることができる。“日向”ではない、ただの思考体として。
存在とは、他者の視線に定義されるものだ。であれば、今このときの“僕”は、存在していない。
そんなふうに考えながら歩くうちに、黒神山の方角へ足が向いていた。答えがあるわけではない。ただ、重力がそちらへ引いている気がした。
「ねえ、アカリ」
声に出すと、風の音に消えた。
「君は、僕に何を託した?」
問いだけが、濁った空に溶けていった。
その瞬間、胸の内側に微かな震えが走った。それは、痛みでも苦しみでもなかった。ただ、名を呼ぶことによって、“誰か”がこちらに振り向いたような錯覚だった。
それが錯覚であってもいい。声を届けるという行為そのものが、僕という存在の、唯一の証明だったから。
この身体に宿る記憶。眼に映る世界。すべてが、すでに誰かのものであったこと。それを継いで、繰り返しているだけの僕に、意味はあるのだろうか。
けれども、意味があるかどうかを考えるより先に、僕は歩き続けていた。なぜなら、歩くという行為そのものが、名前よりも確かな“自己”の痕跡だったから。