黒神邸の書斎は、いつも薄暗い。だがその陰影は、単なる照明の不足ではないように思えた。
壁一面の本棚。その隅にひっそりと置かれた、古びた木製のキャビネット。
ナギはそこを指さして言った。「ここに、もうひとつあった。アカリのものだよ」
引き出しから出てきたのは、小ぶりなノート。擦れた革表紙に、金文字で名のないタイトルが刻まれていた。開くと、そこには彼女の文字が並んでいた。
――わたしのことを、誰かが引き継いでくれるなら。
――この身体が、無駄でなかったと信じたい。
――未来の“わたし”へ。
僕は息を飲んだ。
未来の“わたし”。
それはつまり、“僕”のことなのか?
ページをめくるごとに、少女の影が濃くなっていく。彼女は、自分が終わることを知っていた。そして、それでも“誰か”を想定して書いていた。
まだ見ぬ誰か、もしくは――もう知っている誰か。
ナギが壁にもたれて、眼鏡を外していた。「彼女は、最初から君を待ってたんだと思う」
「……僕を?」
「いや、“誰か”を、だな。名前も、顔も、存在すら定かじゃない誰か。でもそれは、きっとこうして出会う運命にあった存在だ」
言葉が胸に引っかかった。
アカリは、僕を知っていたわけじゃない。
けれど、僕がここにいることで、彼女の“思い”は受け継がれた。
それって、どういうことなんだろう。
魂の転移? 記憶の継承? あるいは――ただの偶然?
だが、偶然が意味を持つ瞬間こそが、運命なのかもしれない。
僕はページを閉じた。最終ページの裏には、ひとことだけ、震える文字が刻まれていた。
――あなたに会えて、よかった。
僕は、目を伏せた。
その言葉が、あまりにも優しすぎて。あまりにも、“今の僕”を肯定しすぎて。
ナギが言った。
「彼女は、“託した”んだよ、この身体も、名前も。自分の代わりになる存在を、どこかで信じていた」
そのとき、不意に胸の内側が熱くなった。
それは痛みではなかった。
ただ、心が重力に引かれるような、奇妙な温もりだった。
「アカリ……君は、“託した”のか」
僕の声は、書斎の空気に静かに溶けていった。
そしてそのとき、気づいた。
――この身体を動かす意志が、僕ひとりのものではないかもしれないということに。
書斎の空気は、言葉を発することすら許さないような静けさに満ちていた。ナギは黙ったまま、古びた懐中時計を弄んでいた。チク、タク。時の音が、まるでアカリの鼓動の残響のように響いた。
ノートのページに、涙がひとしずく、落ちた。
それが僕のものだったのか、彼女のものだったのか、もう分からなかった。感情が、身体のどこから湧いてくるものかさえ分からなくなっていた。これは僕の心臓の動悸か? それとも、かつてこの胸の奥で鼓動していた、アカリという少女の名残か?
「僕が、ここにいていい理由を……」小さく口に出すと、声は驚くほど震えていた。「彼女は、くれたのかもしれない」
ナギは返事をしなかった。だが、その無言の時間が、何よりも優しかった。言葉は、時として余分だ。伝えるには、沈黙の方が雄弁であることもある。
ノートの背表紙を撫でる。革の質感は、どこか体温を持っていた。ありえないはずなのに、その温もりが掌に残った。
机に置かれていたもう一冊の本。そこには、アカリが読んでいたという記録が残されていた。難解な哲学書。タイトルは『自己という幻影』。彼女は、どんな思いでこの本を手にしたのだろう。
ページを開いた瞬間、挟まれていた一枚の紙が滑り落ちた。そこには、彼女の走り書きがあった。
――自分が誰かを定義するのは、自分ではない。
――ならば、誰かの中に生きることを、恐れることはない。
僕は、その言葉を何度も読み返した。読むたびに、少しずつ意味が変わるようだった。
自分の輪郭が、誰かによって描かれていく感覚。それを怖いと思う一方で、同時に美しいとも思った。存在とは、曖昧であることによって、真実に近づく。そんな逆説が、今の僕にはよく分かる気がした。
「ありがとう、アカリ」
そう呟くと、頬をなぞった涙の感触が、少しだけ温かく思えた。
外は、霧が濃くなっていた。