ナギの部屋に入った瞬間、空気が一段階だけ温度を下げたような錯覚に陥った。湿度も、匂いも、すべてが昨日と同じはずなのに、まるで僕の感覚だけが、別のスケールに合わせ直されていた。
「ナギ、これ……昨日の薬、まだあるか?」
言葉が口をついて出たとき、自分の発声がどこか遠く聞こえた。“僕”という主語の手触りが、宙に浮いたまま定着しない。まるで誰かの言葉を借りてしゃべっているような、借用書つきの思考。
ナギは、視線を逸らすでもなく、無言で僕に薬包を差し出した。白い錠剤が三粒、小さなプラスチックケースに収まっている。受け取った指先が、かすかに震えていた。
「昨日……飲んだあと、少しだけ楽になった気がしたんだ」
僕は、説明するように付け加えた。それが嘘でないことを、彼も分かっているようだった。だが、ナギはただ黙ってこちらを見ていた。彼の沈黙は、いつだって何かを測っている。たぶん、僕の“声”の成分か、語尾の揺れの周波数を。
「今、君、自分のこと“わたし”って言いかけたよ」
ナギが唐突に言った。僕は思わず、言葉を反芻した。
「え……?」
「さっき、“わたし”って言おうとした。口の形がそうだった」
指摘された瞬間、喉の奥が凍りついたように感じた。たしかに、“僕”という主語が、一瞬だけ舌の上でずれていた気がする。だが、そんなことがあるだろうか。僕は、僕だ。ずっとそうだった。
「自分じゃ……分からないんだよ。ときどき、“私”が浮かぶ。いや、“わたし”って書いたほうが正確かもしれない。音としてじゃなくて、感触として」
自分でも意味の分からないことを、口にしていた。ナギは眉ひとつ動かさずに、頷く。
「それが“混線”ってやつだ。日向、お前の中でいま、“声”がふたつ重なってる」
部屋の隅で、古い時計の秒針が鳴っている。音がひとつずつ、時間を確定していく。だが、僕の中の時間は曖昧なままだ。僕の声と、アカリの声。二重写しのモノローグが、頭の中で鳴っている。
「君の文体が変わりはじめてる」
「文体……って?」
「言葉の選び方、語尾、文の長さ、句読点の使い方。全部が微妙に“誰か”のものになってる。君のようで、君じゃない」
僕は視線を落とした。自分の足元が、いつもより細く見えた。レギンス越しの脛は、ほっそりしていて、足首の形がやけに整っている。そこに“僕”はいなかった。
「わからないんだ……もう」
その呟きは、誰の声だったのか。僕のものだったか。それとも――。
ナギは静かに眼鏡を外した。その目は、どこか憐れみを帯びているように見えた。いや、違う。あれは、理解だ。彼は、僕の中のアカリを見ていたのかもしれない。
「日向。君は、ひとりじゃない。でも、ふたりでもない。“ひとつの器”に、“ふたつの音色”が鳴っているだけだ」
僕は震える手で、自分の胸に触れた。そこに鼓動はあった。だが、そのリズムが、自分のものだとは言い切れなかった。
――誰が“僕”を語っている?
壁の向こうで、風が鳴った気がした。
今の僕の声に、どれだけ“アカリ”が混じっているのか。それを知る術は、どこにもない。
ただ、僕の中で誰かが、静かに呼吸していた。それだけは、確かだった。
それでも、呼吸を止めることはできなかった。鼓動は絶え間なく続いていた。それが生の証だと誰かが言った。あるいは、死ぬまで止まらないというだけの機械的動作かもしれない。
「もし声がふたつあるなら、それぞれの主がいるのかな?」
僕の問いに、ナギはわずかに口角を上げた。表情というよりは、現象だった。感情に基づくものではない。
「それとも、ひとつの声が反響してるだけかもしれない。洞窟の中のように。誰もいないのに、誰かが答える。エコーって、そういう仕組みだろ?」
「自己応答性、か」ナギは頷いた。「スワンプマンの話に近いな。コピーされたお前が、お前のふりをしてるだけかもしれない」
僕は無言で頷いた。どこかで聞いた例えだった。オリジナルが消えたあと、完璧なレプリカがそれを継いで生きる。本人とコピーの違いは、当人にとっても判断できない。ならば、それは本人なのか?
「だとしたら、僕は……僕じゃないのかもしれない」
「でも君は、その言葉を使ってる。“僕は”と、主張してるじゃないか」
「それは、惰性だよ。慣習。名乗りの習慣にすぎない」
ナギは立ち上がり、机の上の古びた手帳を開いた。そこに何かを記しながら、ぽつりと言った。
「アイデンティティは、揺れていいんだ。むしろ、揺れなければ、それは硬直してるだけだ」
「それが……怖いんだよ」
ようやく口にできた。言葉にするまで、認めたくなかった。でも、それが真実だった。
「アカリという存在が、僕の中で成長している気がする。記憶だけじゃない。反射、口調、しぐさ……全部、僕の中で、浸透してる」
「恐れるな」ナギは手帳を閉じて、僕を見つめた。「融合と侵食は違う。今の君は、まだ境界を保っている」
僕はその言葉を胸の奥で繰り返した。融合と侵食。言葉は似ている。でも意味は、決定的に違う。
どちらに向かっているのだろう。僕は。
ただ、明確なことがひとつある。この声――この“わたし”が、僕の中で強くなっている。
そしてそのことを、僕はもう、否定できなかった。