血よりも深く ―地方都市“黒神ヶ淵”異譚―   作:くにゅたろ

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第6章 第4話:二人の記憶

 

 その夜、眠りの淵は異様に浅く、体温と境界の間に膜のような感触があった。眠ったはずなのに、思考が薄く点滅し続ける。夢と現実の区切りが曖昧で、呼吸のリズムすらも自分のものではない気がする。

 

 僕は夢を見ていたのだろうか。それとも、記憶の再演にすぎなかったのか。曖昧な映像の粒が、呼吸のリズムに合わせて胸の中を回転していた。

 

 赤い壁。崩れた天井。鉄臭い血の匂い。誰かの声がしていた。「アカリ」と呼ぶ声だった。その声に、僕の心は反応した。だが、身体は動かなかった。

 

 小さな手。泥で汚れた素足。震える肩。僕の視点は、その少女のすぐそばにあった。いや、彼女の目から世界を見ていた。廃墟の中、彼女は蹲り、ただ一点を見つめていた。

 

 そこにあったのは、折れた人形の腕だった。

 

 「わたしが、壊したの」

 

 声は外からでなく、内側から響いた。頭の奥、鼓膜より深いところで。彼女は――アカリは、何かを抱えていた。大切なものを。だが、それはもう砕けていた。

 

 「わたしは、守れなかった。あの子の手を、握ったままでいられなかった」

 

 そのとき、廃墟の片隅に立つ“僕”自身を見た。日向の姿をした僕が、アカリのすぐそばにいて、何かを言おうとしていた。

 

 「でも君は、最後まで……その子を見ていた」

 

 それが救いになる言葉だったのか、それとも残酷な観察だったのか、判断できなかった。

 

 場面が変わる。白い部屋。無機質な壁。窓はなく、照明も揺れている。そこには若い研究員らしき男たちと、椅子に縛られたアカリがいた。

 

 彼女は、痛みを訴えていなかった。ただ、じっと誰かを見ていた。

 

 「あなたが、わたしの中にいるの?」

 

 そう言った彼女の唇は、まっすぐに僕を見ていた。その瞬間、夢が“夢”でなくなった。意識が、接続された感覚。僕は、自分がアカリであるように感じた。

 

 「いや、違う……俺は、日向で……」

 

 ふと、視界の中に背中を向けた人影が現れた。彼女はアカリ。だが、どこか違う。より柔らかく、より透明で、より静かだった。

 

 「わたしの記憶、あなたにあげる。きっと、そのためにわたしは、生きていたのかもしれない」

 

 振り返ることなく、彼女は言った。その声は、どこかで聞いた声だった。だが、それが僕のものか、彼女のものか、もう区別がつかなかった。

 

 手を伸ばした。だが届かない。触れる前に、場面が崩れた。

 

 目覚めたとき、天井のシミがひとつ、増えているように見えた。喉が渇いていた。だが、それ以上に胸が苦しかった。酸素が足りないのではなく、空気が“違って”いた。

 

 目を開いたまま、僕は布団から出ることなく、天井を見つめ続けた。視界の端に浮かぶ染みは、もしかすると昨日までには存在していなかったのかもしれない。だが、それが“新しい”のか“思い出された”ものか、判別する術はなかった。

 

 それと同じように、僕の中の“記憶”もまた、アカリのものか、僕のものか、区別がつかない。

 

 目を閉じて浮かぶ映像は、断片でしかない。だが、それらはすでに、僕の過去のような重さと匂いを持っている。例えば、彼女の痛み。彼女の恐れ。彼女の温度。それらが、僕の皮膚に重なっていた。

 

 皮膚は境界だ。外と内を隔てる薄い膜。だがそこに、どちらの記憶が触れているのか。それを判別する機構は、人間には備わっていないのかもしれない。

 

 「この身体は、僕のものではない。でも、僕はこの身体で、すべてを感じている」

 

 吐き捨てるような呟きが、室内の空気をわずかに震わせた。その震えが、まるで“返事”のように響いた。

 

 耳の奥で、誰かが笑った気がした。

 

 「これは……どっちの人生だ?」

 

 声が漏れたとき、僕は鏡の中の“誰か”と目が合った。それは、僕だった。だが、アカリでもあった。

 

 わたしの記憶、あなたにあげる――。

 

 あの声が、今もどこかで続いていた。静かに、しかし確実に。

 

 僕は、目を閉じた。

 

 そして、少しだけ、眠りの続きを望んでしまった。

 

 ――もし記憶がその人自身だとするならば、それを受け取った僕は、誰なのだろうか?

 

 スワンプマンのように、形が同じでも中身が別なら別人だ。けれど、もし“経験”が意識を定義するならば、僕はすでに、アカリになりかけているのかもしれない。

 

 その問いは、答えを持たないまま、今夜も僕の胸に火を灯していた。

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