目覚めたとき、光は優しかった。だが、その優しさはあまりにも無関係に感じられた。まるで、自分の体に関心のない天使が差し出す手のようだった。僕はしばらく天井を見つめていた。何の模様もない、滑らかな白。だが、そこにアカリの横顔が見えた気がした。
「私たち……」
そう呟いて、驚いたのは僕自身だった。一人称が“僕”ではなかったことにではない。自然に、そう口に出たことに、だ。
手を見つめる。指の形、爪の丸み、皮膚の色。それらは明らかに“少女”のそれだったが、不思議と違和感は薄れていた。むしろ、それで良いとすら思った。身体と精神のズレは、もう疲れるだけだった。
訓練場では、沙夜が待っていた。彼女はもう何も聞かなかった。ただ、目で僕の状態を見ていた。観察というより、確認。自分が育てた植物が開花したのを目で確かめるような、あの無言の満足感。
「今日の君、すごく動きがいい」
沙夜の言葉に、僕は軽く頷いた。呼吸のタイミング、筋肉の使い方、踏み込みの速さ――すべてが、昨日よりも“正しい”位置にあった。
「もう、“誰の動き”かなんて考えなくなったの?」
彼女の問いに、僕は答えず、代わりに拳を突き出した。沙夜の頬をかすめ、壁が粉を吹いた。正確だった。狙いも、速度も、力も。まるで、戦うことそのものが目的であるかのような快感が、僕の内側を満たしていく。
「君、楽しくなってるね」
沙夜の言葉には、わずかな警告の響きがあった。だが、僕にはその懸念が届かなかった。
「もう“俺”じゃない。だけど、それでいい気がしてる」
そう言ったとき、沙夜は目を細めた。笑っているようで、何かを見透かすような視線。彼女の視線は、僕の“中”を見ていた。つまり、“僕たち”を。
その夜、僕は窓辺に座って、夜風を感じていた。誰かの記憶が、誰かの痛みが、僕の皮膚を通じて流れているようだった。名付けようのない感覚。だが、そこには確かな実感があった。
これが、アカリの感情だったのか。僕の感情なのか。それとも、僕たちの感情なのか。
――区別する必要なんて、もうないのかもしれない。
明日、沙夜は言うだろう。「じゃあ、血を吸ってみろ。今度は、自分の意志で」と。
そして僕は、おそらく頷くだろう。それが、“私たち”の選択だから。
訓練の終わりに、沙夜は水を渡してきた。その指は冷たく、しかし妙に柔らかかった。義手ではなく、生身の方の手だった。それが逆に奇妙に感じられたのは、僕の中の感覚が何かを拒絶しはじめているからかもしれない。
「この身体ってさ、どうしてこうも感覚が……細かいんだろう」
思わず、こぼれた言葉だった。皮膚の表面に触れる風、汗のにじむ感触、関節の伸び――すべてが微細に、しかし濃密に情報として脳に届く。まるで、五感が再編成されたような錯覚。
「お前、女の身体に慣れてきただけだよ」
沙夜が、軽く笑って答えた。だが、その声の奥には、ほんのわずかな淋しさが混じっていたようにも思えた。彼女は、僕の“変化”を喜んでいるのか、それとも危惧しているのか。そのあたりの境界もまた、曖昧だった。
夜、風呂に入ったとき、自分の身体を久しぶりにじっくりと観察した。鎖骨の浮き上がり方、肩の丸み、腰の細さ。どれも僕の知っていた“俺”の形とは違っていた。けれど、それに対する違和感は、なぜか薄れていた。
「これは、僕たちの身体だよ」
耳の奥で、誰かがそう囁いた気がした。内側に染みついていくその声は、拒否すべきものではなく、むしろ受け入れたくなる響きを持っていた。
「日向」という名と、「アカリ」という名。そのどちらにも完全になりきれない僕たちは、もしかすると、まだ名前のない存在なのかもしれない。だが、それでも、ここに“いる”ということの重さだけは確かだった。
夜が深まるにつれ、身体の奥で脈打つ何かが、ゆっくりと目を覚まし始めていた。
眠る前、ふと指先を口元に当てた。そこには、牙があった。鋭く、だが異物ではなく、すでに“馴染んだもの”になっていた。これが僕のものであるという証明も、否定の材料も、どこにもなかった。
“自分が誰か”という問いに、答えを求める必要はないのかもしれない。問い続けること、それこそが意識というものの存在証明なのだと、どこかの哲学者が言っていた。
そうだとすれば、僕はまだ、“僕たち”はまだ、ここに在る。