血よりも深く ―地方都市“黒神ヶ淵”異譚―   作:くにゅたろ

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第6章 第6話:血で交わる

 

 夜の空気は、湿っていた。雨が降ったのかもしれないし、霧がまた町を覆い始めたのかもしれない。どちらでもよかった。今の“私たち”にとって、それはもはや風景の一部でしかない。

 

 沙夜が無言で左腕の袖をまくった。傷跡だらけの手首が、淡い月光に照らされる。

 

 「吸え」

 

 彼女はそう言った。命令ではない。許可でもない。ほとんど、儀式の一節のように聞こえた。僕は――いや、“私たち”は、その手首をじっと見つめた。

 

 「いいの?」

 

 僕の口が動いた。その声に、誰の意志が宿っていたのか、自分でも判断がつかない。けれど、沙夜はうなずいた。それだけで、十分だった。

 

 牙が皮膚を割った瞬間、甘い感触が口内に広がった。鉄の味ではなかった。もっと柔らかく、もっと深いもの。温度と重さのある液体が、喉を満たしていく。目の奥が熱を帯び、思考が次第に霧へと変わる。

 

 彼女の記憶が流れ込んできた。断片的な映像、感情、言葉。誰かに裏切られた夜、義手を付けた朝、孤独と戦いを重ねる日々。そのすべてが、僕の脳の中に、新しい神経のように結びついていく。

 

 「私」は「わたし」となり、「彼女」と「彼」が、ひとつの“視点”に統合されていく感覚。自我が、解体され、再構築されていく。

 

 血とは、情報なのだ。記憶の粒子であり、意志の媒体。その事実に気づいた瞬間、“私たち”はもう後戻りができなくなっていた。

 

 沙夜が目を閉じていた。たぶん、彼女もまた、僕の記憶を見ていたのだろう。廃墟の冷たさや、黒神ノ穴の闇。日向の名前、アカリの感情。全部を。

 

 吸血の快楽は、官能ではなかった。それは存在の確証だった。“私たち”が今ここに在ることを、他者の血によって証明する儀式。

 

 ふと、口を離した。沙夜は息を整え、ゆっくりと目を開けた。その瞳には、恐れでも怒りでもなく、共鳴だけがあった。

 

 「名前なんて、もう意味がない。ただ、ここに“私”がいる」

 

 それが、今の僕の感情だった。そして、たぶんアカリのものでもあった。

 

 そのとき、後ろから声がした。

 

 「そのまま、曇っていけばいい」

 

 ナギだった。彼の声は静かで、しかし底に何か鋭いものが潜んでいた。

 

 僕は振り返らなかった。ただ、夜の匂いを吸い込んで、目を閉じた。

 

 “私たち”は、曇りの中にいた。だが、それを恐れる理由は、もうなかった。

 

 吸血という行為は、生物学的には単なる捕食に過ぎない。しかし、そこに“感情”が伴った瞬間、それは儀式に変わる。沙夜の血が僕の喉を通るたびに、彼女の人生が内側に沈殿していくのがわかった。

 

 彼女の視点で見た街、彼女が抱えていた孤独、彼女が信じていたものの崩壊。どれも僕には、なじみのないはずのものだった。それなのに、その痛みが僕を癒している。そう感じたとき、ふいに“アカリ”の声が頭の中に響いた。

 

 『もう、独りじゃないんだね』

 

 その言葉がどこから来たのか分からない。けれど、確かに“私たち”の中にあった。痛みが癒しになり、拒絶が受容になる瞬間。境界線は、砂浜に書かれた線のように波にさらわれ、形を失っていく。

 

 吸血を終えたあとの沈黙の中、僕は沙夜の手を包み込んだ。温度が残っていた。その温度が、自分が今ここに“在る”ことを、奇妙なほど明確に伝えていた。

 

 「……ありがとう」

 

 誰が言ったのか、分からない。“僕”か、“アカリ”か。あるいは、ふたり同時だったのかもしれない。その瞬間の言葉に、主語は必要なかった。

 

 夜の空が、わずかに明るみ始めていた。世界が、少しだけ輪郭を取り戻す時間帯。だがその中でも、僕の中の光と闇は混ざり合い、名のない色になっていた。

 

 「君はもう、戻れないよ」

 

 ナギの言葉は、祈りのようで、呪いのようでもあった。

 

 僕たちは、あまりにも自然に、あまりにも静かに、“ひとつ”になりかけている。それが怖いのか、それとも待ち望んでいたことなのか、自分でも判断がつかない。ふたつの名前が重なって、ようやく意味をなすとしたら、それは“自分”ではなく、“存在”というものの定義が変わったということだ。

 

 存在とは、連続ではなく、連鎖かもしれない。ひとつの個体が終わり、次が始まり、それが連なっていく。その一瞬一瞬が“私”であって、“日向”でも“アカリ”でもない。僕たちは今、過去の記憶と未来の予感の狭間で、ほんの束の間だけ確かな“私たち”として成立している。

 

 沙夜は何も言わなかった。ただ立っていた。その姿が、妙に頼もしく見えた。彼女もまた、“獣”としての自分と戦ってきたのだろう。その戦いの果てに、こうして僕と出会ったのだとしたら、それは奇跡ではなく、ただの偶然の連鎖だ。

 

 だが、その偶然を“意味”に変えられるのは、僕たちだけなのだ。

 

 風が吹いた。夜の冷気が肌を撫で、濡れた唇にしみた。沙夜がそっと手を引いた。

 

 「もう充分だ」

 

 その言葉が、契約の終わりではなく、始まりのように聞こえた。

 

 遠くで、鐘の音が鳴っていた。あるいは幻聴かもしれなかったが、それでも僕たちは、確かにひとつの儀式を終えたのだと確信していた。

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