血よりも深く ―地方都市“黒神ヶ淵”異譚―   作:くにゅたろ

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第7章:快楽と痛みの境界
第7章 第1話:死ぬことで生きる


 

 乾いた音が耳に残った。あれは、骨が折れた音だったと思う。あるいは、皮膚が裂けたときの湿った音と混じった幻聴かもしれない。どちらでも構わない。問題は、痛みがあったかどうかだ。

 

 沙夜の蹴りが、鳩尾にめり込んでいた。訓練という名の暴力は、予告なく訪れる。空気が肺から押し出され、視界が一瞬だけ白く染まった。それが、僕の“死”の瞬間だった。

 

 「……っ、ぐぅ……っ」

 

 膝をつく。喉がひゅうひゅうと音を立てる。酸素が入ってこない。そのはずなのに、頭のどこかがはっきりとしていた。心臓が、信じられない速さで鼓動しているのが分かる。目の奥が熱を持つ。

 

 そして、始まった。細胞がざわめくように、破壊された組織が再構築されていく。体中を巡る感覚。痛みが、熱に変わり、やがて快感へと姿を変える。傷口が塞がっていくたび、なぜか笑いたくなる衝動に駆られた。

 

 「……なに、笑ってんの?」

 

 沙夜の声が、遠くから聞こえた。僕は、自分が笑っていることに気づかなかった。

 

 「いや……なんか、生きてるなって」

 

 「そりゃ、死にかけたからね」

 

 返ってきた言葉に、僕は首を傾げる。

 

 「死にかけないと、生きてる感じがしないのかな、俺は」

 

 その問いは、誰かに向けたものではなく、僕自身への疑問だった。エピクロスなら、こうは言わないだろう。彼にとっての快楽とは、痛みの欠如であり、平穏であり、静寂だった。だが僕のこの身体は、明らかにそれと反対の方向に傾いている。破壊から再生へ。死の縁から這い上がるときにしか、“生”が感じられない。

 

 「それって……ちょっと、ヤバくない?」

 

 沙夜の声に混じる警告を、僕は軽く受け流した。ヤバいかどうかは、問題ではない。それが事実であり、僕という存在の構造なのだから。

 

 痛みは現実だ。痛みがあることで、僕はこの身体が他人のものではなく、自分のものになりつつあると信じられる。身体が反応し、再生し、感覚を伝えてくるたびに、「ここにいる」という実感が、ようやく得られる。

 

 「でも、気持ちよかったでしょ?」

 

 沙夜が問う。僕は頷いた。

 

 「うん。……正直、気持ちよかった」

 

 「じゃあ、もう後戻りできないね」

 

 その言葉は、告発でも、同情でもなかった。ただの事実確認のように響いた。

 

 僕は、死ぬことで生を確認する存在になった。痛みを通じて、自分が“日向”であると同時に“アカリ”でもあることを、受け入れていく。理屈ではない。肉体が、それを証明してしまっているのだ。

 

 「これが“快楽”なのかな」

 

 僕は言った。言いながら、その言葉が軽く響いたのが嫌だった。快楽。それは、単純すぎる言葉だ。

 

 「もしかすると、“快感”より“肯定感”って言ったほうが近いのかもしれない」

 

 沙夜は口元を歪めた。「哲学の時間?」

 

 「いや。たぶん、“生”ってのは“意味”じゃなくて“反応”なんだよ。痛みに反応するから、生きてるって思える。逆に言えば、反応がなければ、それは死と変わらない」

 

 「難しいこと言うね。けど、たぶんそれで合ってる」

 

 彼女はそう言って、拳を再び構えた。

 

 「もう一発、いっとく?」

 

 僕は苦笑した。

 

 「遠慮しとくよ。今のところ、生きてる実感は充分あるから」

 

 「そう。じゃあ、次の実感は……“快楽”について、だね」

 

 その言葉には、笑いと、微かな警告が含まれていた。

 

 僕はそれを、全身で受け止める準備をしていた。

 

 この身体が、どこまで自分で、どこまで“彼女”なのか。

 

 その問いに、ようやく正面から向き合える気がした。

 

 そのとき、初めて“痛み”が怖くなかった。

 

 むしろ、待ち遠しくさえあった。

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