窓の外には、霧がかかっていた。昼と夜の境目が曖昧になるような、グレーの濃淡が世界をぼかしている。黒神邸の書斎に腰をかけ、ナギは薄い眼鏡を外して、手元のノートを閉じた。
「……で、君の言いたい“快楽”っていうのは、あの時のことか?」
静かな声だったが、芯のようなものがあった。喉の奥が震えるような響きではなく、脳に直接触れてくるような問いだった。
僕――私は、しばらく答えられなかった。自分の中にある“名前”が、まだ整理できていなかったからだ。
「この前、戦ったとき……再生の瞬間、すごく気持ちよかった」 口にしてから、それがあまりにも無防備な告白だと気づいた。けれど、ナギの表情は変わらなかった。
「エピクロスはね、快楽の本質を“痛みのない状態”と定義した」
彼は懐中時計をいじりながら言った。その仕草は、まるで語られる内容と関係ないようでいて、逆に強く印象に残った。
「つまり、身体的にも精神的にも苦痛がない状態が、快楽の完成形だと。何かを得るより、苦しみから解放されることが重要だと考えた」
「でも……それって、退屈じゃないか?」 私は反射的に言っていた。
ナギの指が、時計の鎖を止めた。
「退屈。それは、“快楽”の別名だとも言える。痛みがなければ、人はそれを“平穏”と呼ぶだろうけれど、その平穏に耐えられる人は意外と少ない」
「僕は……いや、私は……」 言い直してみる。声が少し震えた。
「私は、傷つく瞬間にこそ、生きている気がした。あの鋭い痛みや、流れる血の熱。それが“私”をここに繋ぎとめてくれるようで」
「なら君は、“傷だらけの楽園”を望むってことだね」
ナギの視線は、まっすぐだった。そこに軽蔑も、共感もなかった。ただ、観察だけがあった。
観察者の目。僕がかつて、人に向けていた目だ。
「……僕が感じていた“快楽”は、痛みがあったからだったんだ。恐怖も、苦しみも、ぜんぶ含んで。だから、あれは単純な快楽じゃない。もっと……混ざってる」
「混合感覚か。たぶん君の言うそれは、マゾヒズムに近い。痛みと快楽を混同しているわけじゃなく、痛みがあるから快楽を信じられるという逆説」
ナギの声は、少しだけ低くなった。
「でもそれは、どこかで“中毒”になるよ。痛みを得ようとして戦うようになる。生きるためじゃなく、感じるために生きるようになる」
「それでも、生きてるって感じたいんだ。誰かのものになった体で、“自分”を証明したいんだ」
私の声が震えた。
外の霧はまだ消えない。まるで、私の中の境界線を映しているように。
ナギは立ち上がった。そして、何も言わずに部屋を出て行った。
残された私は、ぼんやりと自分の手を見る。細く、白く、かすかに震えている。
この手は、誰のものだっただろう。
その問いの続きは、次に沙夜が教えてくれる。
「……あたしも、最初はそうだったよ」
後ろの影が、静かに言った。