夜は、沈黙のためにある。
それは誰の言葉でもなく、誰にも伝えることのない思考の溜まり場だった。僕、あるいは私、はその夜の中にいて、自分の輪郭をなぞっていた。
沙夜は黙っていた。焚き火の揺らぎだけが、彼女の義手の輪郭を時折、照らしていた。無言のまま、彼女は木の枝を拾い、それをゆっくりと火にかざした。乾いた匂いが立ちのぼる。
「……痛みってのはね、証なんだよ」
突然、彼女はそう言った。言葉はまるで、すでに何百回も繰り返された台詞のように、よどみなく、しかし感情のこもらない響きで、そこにあった。
「誰もが感じてるわけじゃない。でも、あたしはそれだけが、唯一、ここにいるって思わせてくれた」
彼女の視線は火の中に落ちていた。どこか、遠い昔を見ているような、あるいは、いまここにいない誰かに語りかけているような、そんな曖昧な表情だった。
僕は、何も言えなかった。火の熱が、肌を焼くような感覚と重なって、さっきまでの訓練の疲れが痛みに変わり始めていた。それは不快というより、どこか安心するような……いや、そう感じてしまう自分が、怖かった。
「快楽ってのは、複雑だよ。戦って、血が流れて、それが気持ちいいって思うなんて……普通じゃない。あたしも、それが怖かった」
沙夜は、肩にかかる髪をかきあげて、少しだけ笑った。だけど、その笑みは悲しみとも違った。諦めに近い、でもどこか優しい表情だった。
「でもね、それがなきゃ、生きてるって思えなかった。教会で、訓練だけの毎日だった。寝る時間も、飯の時間も、全部、他人に決められてて。あたし自身が、どこにもいなかった。痛みだけが、あたしだった」
火がパチ、と小さく音を立てた。静寂はそれでも破られず、むしろより深まったように思えた。
僕は、自分の手を見た。赤黒い傷がまだ残っている。昨日の訓練で、沙夜に投げられたときにできたものだ。そこに、確かに、僕はいた。
「君も、そうなんだろ?」
彼女の声が、夜の中に落ちた。
「自分がどこにいるか、わからなくなる。誰だったかも、あやふやになる。だから、痛みが必要なんだ。……なあ、違うか?」
僕は、頷くしかなかった。
そうだ、きっと、そうなんだ。
でも、それだけじゃ足りない。
彼女の話は、どこか懐かしい旋律のように、耳に残った。
僕は、過去の自分を思い出していた。日向として生きていた頃の、机に向かって哲学書を読み耽っていた日々。そこには快楽も痛みもなかった。ただ、無感動で安全な日常があった。けれど今は、毎日が極端な感覚に満ちている。剥き出しの痛みと、戸惑いの快感。その両方が、僕を構成していた。
エピクロスは、痛みの不在こそが快楽だと言った。だが僕は、その不在が、虚無にも感じられることを知っている。だからこそ、痛みの輪郭は、生の証だ。誰かに殴られ、流れた血が、今の僕の存在を形づくっている。
「ねえ、沙夜」
僕は言葉を選びながら、彼女に尋ねる。
「もし、痛みがなくても、生きていけるとしたら……それでも、君はその道を選ぶ?」
沙夜は、少しだけ考えてから首を振った。
「痛みがなければ、今の私はいない。あたしの記憶のほとんどは、痛みにまつわるものなんだ」
僕は頷く。そして、再び自分の内側を覗き込む。
この身体が痛みを覚えるたびに、僕の中で誰かが目を覚ます気がする。
それは日向か、アカリか、それとも……。
沙夜が語った“教会”という空間の冷たさ。それは、僕が感じていた「元の日常」の温度と、不思議なほど重なる部分があった。誰かが決めたルールに従い、誰とも深く関わらず、ただそこに“いる”ことだけを求められた時間。違うのは、彼女にとっての「生きる」は暴力と痛みの中にあったという点だった。
そして、僕はどうだろう。いまこの瞬間、沙夜の隣にいて、訓練で傷つき、再生し、そのたびに「気持ちいい」とさえ思ってしまう身体の反応に、嫌悪と快感が同時に湧き上がってくる。矛盾した感情が皮膚の下でぶつかり合い、その摩擦がまた、自分を感じさせる。
「お前も気づいてるんだろ、これが“癖”になってきてることに」
沙夜の言葉は鋭く、しかし否定の余地がなかった。
そう、僕はそれを否定できない。もはや痛みがなければ、落ち着かない。血が流れないと、物足りない。そんなふうに、いつの間にか作り変えられてしまった自分に気づいている。
夜が深くなる。星は雲に隠れ、世界は焚き火の輪郭だけで構成される。
僕はその光の中で、かすかに震えていた。恐怖か、快感か、それすら曖昧だった。
だが一つだけ、確かに言えることがあった。
――僕はもう、もとの日向には戻れない。