風は重たかった。まるで、まだ見ぬ嵐の前兆のように。
夜の町並みを、ぬるい空気が這いずる。
コンクリートの割れ目から吹き上がる湿った匂いが、獣の気配を孕んでいた。
僕――いや、私は、気づいていた。
この先の暗がりに、何かが潜んでいる。
それが敵であるか、友であるか。いや、そんな区別はもう、どうでもよかった。
私は歩みを止めない。
心臓の鼓動が、いつもより僅かに高く、速くなっている。
不安ではない。期待でもない。
それは、たぶん、渇望だ。
「……来い」
声を出した覚えはなかった。
けれど、影は応じた。
黒い輪郭が、路地裏から躍り出る。
牙を剥き、爪を振り上げ、己が存在を誇示するために。
瞬間、私は考えるより先に動いていた。
地面を蹴り、身体を捻り、狙い澄ました一撃をかわす。
ブーツの底に伝わる振動が、やけに生々しい。
細い足首が、奇妙な柔軟さで回転する。
私のものなのに、私のものではない感覚。
「楽しい」
誰の声だろう。
私の口が、勝手に動いていた。
笑っていた。
喉の奥で、乾いた嗤い声が弾ける。
獣――それはかつて、人だったもの。
今は、人の形をした肉の塊に過ぎない。
私の爪が、それを裂く。
牙が、血管を捉える。
温かい液体が、舌の上を滑る。
甘い。甘すぎる。
脳が痺れる。
目の前の世界が、輪郭を失って滲んでいく。
全身が熱を持ち、皮膚の裏側から歓喜が湧き上がる。
もっと。
もっと飲みたい。
もっと壊したい。
「やめろ」
微かな理性が、どこかで囁く。
けれど、耳を貸したくなかった。
今この瞬間だけは、すべてを忘れたかった。
爪を振り下ろし、肉を裂き、骨を断つ。
血飛沫が夜気に溶ける。
冷たかったはずの空気が、燃えるように熱く感じる。
ああ。
これが、生きるということか。
痛みも恐怖も、すべてが歓喜に変わる。
壊すこと、奪うこと、飲み込むこと。
そのすべてが、存在の証明だった。
私は、私は――。
「……気持ち悪い」
ふと、呟いていた。
呆れるほど冷静な、自分の声。
それでも、頬が緩んでいた。
笑っていた。
「でも――こんなに、生きてるって、感じたことない」
足元には、倒れた混血体が横たわっている。
もはや動かない。
静かに、静かに、夜の地面に血を広げながら。
私は立っていた。
呼吸を整えることもなく。
汗ばんだシャツが、肌に貼りつく感触すら、心地よかった。
闘争の悦び。
それは、私のなかの獣が、初めて心から笑った瞬間だったのかもしれない。
けれど、ふと、胸の奥に冷たいものが広がる。
こんな自分を、私は認めていいのか?
これが、本当に、私なのか?
わからなかった。
ただ一つ、確かなのは。
私は、もう戻れないところまで来てしまった、ということだけだった。
――このままで、いいのか……?
夜風が、何も答えないまま、ただ髪を撫でた。