血よりも深く ―地方都市“黒神ヶ淵”異譚―   作:くにゅたろ

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第7章 第4話:闘争の悦び

 

風は重たかった。まるで、まだ見ぬ嵐の前兆のように。

夜の町並みを、ぬるい空気が這いずる。

コンクリートの割れ目から吹き上がる湿った匂いが、獣の気配を孕んでいた。

 

僕――いや、私は、気づいていた。

この先の暗がりに、何かが潜んでいる。

それが敵であるか、友であるか。いや、そんな区別はもう、どうでもよかった。

 

私は歩みを止めない。

心臓の鼓動が、いつもより僅かに高く、速くなっている。

不安ではない。期待でもない。

それは、たぶん、渇望だ。

 

「……来い」

 

声を出した覚えはなかった。

けれど、影は応じた。

黒い輪郭が、路地裏から躍り出る。

牙を剥き、爪を振り上げ、己が存在を誇示するために。

 

瞬間、私は考えるより先に動いていた。

地面を蹴り、身体を捻り、狙い澄ました一撃をかわす。

ブーツの底に伝わる振動が、やけに生々しい。

細い足首が、奇妙な柔軟さで回転する。

私のものなのに、私のものではない感覚。

 

「楽しい」

 

誰の声だろう。

私の口が、勝手に動いていた。

笑っていた。

喉の奥で、乾いた嗤い声が弾ける。

 

獣――それはかつて、人だったもの。

今は、人の形をした肉の塊に過ぎない。

私の爪が、それを裂く。

牙が、血管を捉える。

温かい液体が、舌の上を滑る。

甘い。甘すぎる。

 

脳が痺れる。

目の前の世界が、輪郭を失って滲んでいく。

全身が熱を持ち、皮膚の裏側から歓喜が湧き上がる。

 

もっと。

もっと飲みたい。

もっと壊したい。

 

「やめろ」

 

微かな理性が、どこかで囁く。

けれど、耳を貸したくなかった。

今この瞬間だけは、すべてを忘れたかった。

 

爪を振り下ろし、肉を裂き、骨を断つ。

血飛沫が夜気に溶ける。

冷たかったはずの空気が、燃えるように熱く感じる。

 

ああ。

これが、生きるということか。

 

痛みも恐怖も、すべてが歓喜に変わる。

壊すこと、奪うこと、飲み込むこと。

そのすべてが、存在の証明だった。

 

私は、私は――。

 

「……気持ち悪い」

 

ふと、呟いていた。

呆れるほど冷静な、自分の声。

それでも、頬が緩んでいた。

笑っていた。

 

「でも――こんなに、生きてるって、感じたことない」

 

足元には、倒れた混血体が横たわっている。

もはや動かない。

静かに、静かに、夜の地面に血を広げながら。

 

私は立っていた。

呼吸を整えることもなく。

汗ばんだシャツが、肌に貼りつく感触すら、心地よかった。

 

闘争の悦び。

それは、私のなかの獣が、初めて心から笑った瞬間だったのかもしれない。

 

けれど、ふと、胸の奥に冷たいものが広がる。

こんな自分を、私は認めていいのか?

これが、本当に、私なのか?

 

わからなかった。

ただ一つ、確かなのは。

私は、もう戻れないところまで来てしまった、ということだけだった。

 

――このままで、いいのか……?

 

夜風が、何も答えないまま、ただ髪を撫でた。

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