日記帳は、軽かった。
その質量の軽さが、余計に重苦しかった。
ベッド脇の棚――手が届く距離。つまり、毎晩のように読まれていた可能性が高い場所だ。表紙に名前はない。花の模様と、少し擦れた角。無機質な部屋に置かれた唯一の“私物”らしきものだった。
僕は、その日記帳を開いた。最初のページには、こう書かれていた。
「わたしは 血に 愛されていない」
墨のように濃い黒で、ひらがなとカタカナが不均衡に並んでいた。
筆圧が強い。紙がへこむほど、言葉が突き刺さっていた。
“血”という単語が、異様に浮かび上がる。単なる比喩ではない、もっと具体的な感覚として。
数ページめくる。内容は、日付の記載が曖昧で、文体も統一されていない。
“私”と“わたし”が混在し、語尾の調子が変わる。感情が崩れ、文章が乱れる。
時折、文中に登場する他人の名前は黒く塗り潰されていた。削除の痕跡。
ページの隅に、爪で引っかいたような折れ目。
その混乱は、記録ではなく、“残響”だった。
あるいは、記憶の模造品。自分自身を写し取ることに失敗した誰かの、言葉の破片。
部屋を見渡す。
写真立てが三つ。ガラスは埃を被っていたが、指先でなぞればすぐに元の透明が戻った。
映っていたのは、制服姿の少女――アカリ。いや、“この身体の持ち主”。
だがその表情には、笑顔がなかった。整った顔立ちの中に、表情の情報が欠落していた。目はレンズの奥を見ておらず、口元は意図的に閉じられていた。
日記の文体と、写真の無表情が重なる。
そこにあったのは“孤独”だった。
誰かに見せるために書かれた言葉ではなく、誰にも見せないために書き残された言葉。
誰かに撮られるために微笑む写真ではなく、誰にも見られないことを前提に撮られたような視線。
アカリという存在は、他者との接点を拒否していたのか、それとも望んでいたのか。
僕は、ベッドに腰を下ろした。
身体が、この部屋に“馴染んでいる”のを感じた。
それは錯覚かもしれない。だが、視線の高さ、棚の配置、机の角の使い古され方――それらが、この身体の記憶と無言で一致している気がした。
この空間は、アカリのものだった。
けれど、僕が今この身体を通じてこの空間に触れているということは、“僕”もこの部屋の一部になっているということだ。
“誰かの痕跡に、自分の輪郭が飲み込まれていく感覚”
それは、侵食ではなく、融解に近かった。
もう一度、日記を手に取った。
適当に開いたページに、こんな一文があった。
「なぜ血は、流れてしまうのに、内側を離れてくれないのだろう」
言葉の配置に、理屈を越えた実感がある。
それは比喩として書かれた可能性もあるが、それだけではないと直感した。
血。
この身体の中に流れている液体。
脈動し、暖かく、赤い。にもかかわらず、アカリはそれに「愛されていない」と言った。
つまり、それは“他者の血”を意味するのか?
あるいは、“自分の内にある異物”としての血を拒絶していたのか。
写真のアカリが、こちらを見ている気がした。
笑っていない。泣いてもいない。ただ、“不在の感情”だけが浮いている。
それは、存在しない自我が、表面だけに貼りついた仮面のようだった。
僕は立ち上がり、鏡の前に戻った。
今、ここに映っているのは――この少女だ。
僕の中にある“意識”は、確かに柊日向のものだ。
けれど、手を伸ばして頬を触れたとき、そこにあったのは「アカリ」という肉体の温度。
まつげの長さ。首の細さ。指のかたち。
それらは、僕の意志とは無関係に、この世界の現実に存在していた。
「アカリ……この子が、本当に俺なのか?」
声に出してみた。けれど、その声は僕のものではなかった。
響きも、息遣いも、別の誰かが用意した音だった。
それを耳にした瞬間、心の奥に、微かに、冷たい“痛み”が走った。
感情ではない。反射的なもの。あるいは、“違和感”ではなく、“拒絶”に近い何か。
喉が、乾いていた。
思えば、目覚めてから水を飲んでいない。
けれど、この渇きは、水では癒せない種類のものだと、僕は直感していた。
そのときだった。
奥歯のあたりに、微かな疼きが走った。
歯茎。いや――牙?
僕は口元に手を当てた。
唇の内側で、何かが“伸びている”感触。皮膚を破りたがっているような圧。
脈が、速くなっていた。
血の流れが、身体の内側でノイズを発していた。
――“血に、愛されていない”。
アカリの言葉が、再び蘇った。
それは、僕自身への予言だったのかもしれない。