血よりも深く ―地方都市“黒神ヶ淵”異譚―   作:くにゅたろ

4 / 63
第4話:“アカリ”の部屋

 

 日記帳は、軽かった。

 その質量の軽さが、余計に重苦しかった。

 ベッド脇の棚――手が届く距離。つまり、毎晩のように読まれていた可能性が高い場所だ。表紙に名前はない。花の模様と、少し擦れた角。無機質な部屋に置かれた唯一の“私物”らしきものだった。

 

 僕は、その日記帳を開いた。最初のページには、こう書かれていた。

 

 「わたしは 血に 愛されていない」

 

 墨のように濃い黒で、ひらがなとカタカナが不均衡に並んでいた。

 筆圧が強い。紙がへこむほど、言葉が突き刺さっていた。

 “血”という単語が、異様に浮かび上がる。単なる比喩ではない、もっと具体的な感覚として。

 

 数ページめくる。内容は、日付の記載が曖昧で、文体も統一されていない。

 “私”と“わたし”が混在し、語尾の調子が変わる。感情が崩れ、文章が乱れる。

 時折、文中に登場する他人の名前は黒く塗り潰されていた。削除の痕跡。

 ページの隅に、爪で引っかいたような折れ目。

 

 その混乱は、記録ではなく、“残響”だった。

 あるいは、記憶の模造品。自分自身を写し取ることに失敗した誰かの、言葉の破片。

 

 

 

 部屋を見渡す。

 写真立てが三つ。ガラスは埃を被っていたが、指先でなぞればすぐに元の透明が戻った。

 映っていたのは、制服姿の少女――アカリ。いや、“この身体の持ち主”。

 だがその表情には、笑顔がなかった。整った顔立ちの中に、表情の情報が欠落していた。目はレンズの奥を見ておらず、口元は意図的に閉じられていた。

 

 日記の文体と、写真の無表情が重なる。

 そこにあったのは“孤独”だった。

 誰かに見せるために書かれた言葉ではなく、誰にも見せないために書き残された言葉。

 誰かに撮られるために微笑む写真ではなく、誰にも見られないことを前提に撮られたような視線。

 

 アカリという存在は、他者との接点を拒否していたのか、それとも望んでいたのか。

 

 僕は、ベッドに腰を下ろした。

 身体が、この部屋に“馴染んでいる”のを感じた。

 それは錯覚かもしれない。だが、視線の高さ、棚の配置、机の角の使い古され方――それらが、この身体の記憶と無言で一致している気がした。

 

 この空間は、アカリのものだった。

 けれど、僕が今この身体を通じてこの空間に触れているということは、“僕”もこの部屋の一部になっているということだ。

 

 “誰かの痕跡に、自分の輪郭が飲み込まれていく感覚”

 それは、侵食ではなく、融解に近かった。

 

 

 

 もう一度、日記を手に取った。

 適当に開いたページに、こんな一文があった。

 

 「なぜ血は、流れてしまうのに、内側を離れてくれないのだろう」

 

 言葉の配置に、理屈を越えた実感がある。

 それは比喩として書かれた可能性もあるが、それだけではないと直感した。

 

 血。

 この身体の中に流れている液体。

 脈動し、暖かく、赤い。にもかかわらず、アカリはそれに「愛されていない」と言った。

 

 つまり、それは“他者の血”を意味するのか?

 あるいは、“自分の内にある異物”としての血を拒絶していたのか。

 

 写真のアカリが、こちらを見ている気がした。

 笑っていない。泣いてもいない。ただ、“不在の感情”だけが浮いている。

 それは、存在しない自我が、表面だけに貼りついた仮面のようだった。

 

 

 

 僕は立ち上がり、鏡の前に戻った。

 今、ここに映っているのは――この少女だ。

 僕の中にある“意識”は、確かに柊日向のものだ。

 けれど、手を伸ばして頬を触れたとき、そこにあったのは「アカリ」という肉体の温度。

 まつげの長さ。首の細さ。指のかたち。

 それらは、僕の意志とは無関係に、この世界の現実に存在していた。

 

 「アカリ……この子が、本当に俺なのか?」

 

 声に出してみた。けれど、その声は僕のものではなかった。

 響きも、息遣いも、別の誰かが用意した音だった。

 それを耳にした瞬間、心の奥に、微かに、冷たい“痛み”が走った。

 感情ではない。反射的なもの。あるいは、“違和感”ではなく、“拒絶”に近い何か。

 

 

 

 喉が、乾いていた。

 思えば、目覚めてから水を飲んでいない。

 けれど、この渇きは、水では癒せない種類のものだと、僕は直感していた。

 

 そのときだった。

 奥歯のあたりに、微かな疼きが走った。

 歯茎。いや――牙?

 

 僕は口元に手を当てた。

 唇の内側で、何かが“伸びている”感触。皮膚を破りたがっているような圧。

 

 脈が、速くなっていた。

 血の流れが、身体の内側でノイズを発していた。

 

 

 

 ――“血に、愛されていない”。

 

 アカリの言葉が、再び蘇った。

 それは、僕自身への予言だったのかもしれない。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。