湯気に沈む視界のなかで、私はただ黙っていた。
シャワーの音だけが単調に響いている。
それは、遠い雨音のようにも、心臓の拍動のようにも聞こえた。
戦いのあと。
身体にこびりついた血液は、もう流れ落ちていた。
だが、皮膚の裏に染みついた快楽だけは、どうしても洗い流せなかった。
あの瞬間、私はたしかに歓喜していた。
爪が肉を裂く感覚、牙が温かいものを穿つ感覚、
そして、命を手繰り寄せるように味わう、再生の歓び。
私は、気持ちよかったのだ。
間違いなく。
言い訳もできないほどに。
手のひらを見つめた。
濡れた細い指先は、微かに震えていた。
それは、疲労ではなかった。
震えているのは、魂だ。
「気持ち悪い……」
独り言のように呟く。
だが、口元は緩んでいた。
自嘲だろうか。それとも、まだどこかで悦びを噛みしめているのか。
そのとき、ドアが静かに開いた。
湯気の向こうから、黒い影が現れる。
ナギだった。
「……満足したか?」
彼の声は低く、感情を感じさせなかった。
それが、逆に私の胸に突き刺さる。
私は答えられなかった。
どちらも、嘘になる気がしたからだ。
ナギは、壁にもたれながら言った。
「もし、それが“日向”としての答えなら、俺は何も言わない」
私は目を閉じた。
シャワーの温度が急に冷たく感じた。
いや、きっと、心が冷えたのだ。
日向。
そう、私は、柊日向だったはずだ。
だが、今、私を満たしているこの感覚は――
誰のものなのか。
アカリ。
私のなかに宿った、もうひとりの存在。
彼女の歓びが、私の歓びと溶けあっている。
私たちは、もう分けられない。
そんな気がしていた。
「……でも」
私は唇を噛みながら言った。
「もし“アカリ”であることを受け入れたら……
何かが、戻ってこない気がするんだ」
ナギは、何も言わなかった。
ただ、静かに私を見ていた。
その視線は、責めてもいなかったし、励ましてもいなかった。
ただ、そこにあった。
私は、逃げたかった。
この問いから。
この痛みから。
だが、それすらも、快楽に変わりかけている自分が、怖かった。
――このままで、いいのか。
誰に問うわけでもなく、心のなかで呟く。
シャワーの音が、雨脚のように強くなった気がした。
私は目を開けた。
そこには、見慣れた少女の顔が映っていた。
濡れた長い髪。
細く白い指。
眠たげな瞳。
それは私だった。
そして、彼女だった。
もう、どちらでもなかった。
静かにシャワーを止めた。
音が消える。
世界から、ひとつ音が減った。
ナギは、背を向けた。
去り際に、低く呟いた。
「……お前、ほんと曇ってきたな」
私はその言葉を、否定することも、肯定することもできなかった。
ただ、曇った鏡のなかで、微かに笑った。