血よりも深く ―地方都市“黒神ヶ淵”異譚―   作:くにゅたろ

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第7章 第5話:このままでいいのか

 

湯気に沈む視界のなかで、私はただ黙っていた。

シャワーの音だけが単調に響いている。

それは、遠い雨音のようにも、心臓の拍動のようにも聞こえた。

 

戦いのあと。

身体にこびりついた血液は、もう流れ落ちていた。

だが、皮膚の裏に染みついた快楽だけは、どうしても洗い流せなかった。

 

あの瞬間、私はたしかに歓喜していた。

爪が肉を裂く感覚、牙が温かいものを穿つ感覚、

そして、命を手繰り寄せるように味わう、再生の歓び。

 

私は、気持ちよかったのだ。

間違いなく。

言い訳もできないほどに。

 

手のひらを見つめた。

濡れた細い指先は、微かに震えていた。

それは、疲労ではなかった。

震えているのは、魂だ。

 

「気持ち悪い……」

 

独り言のように呟く。

だが、口元は緩んでいた。

自嘲だろうか。それとも、まだどこかで悦びを噛みしめているのか。

 

そのとき、ドアが静かに開いた。

湯気の向こうから、黒い影が現れる。

ナギだった。

 

「……満足したか?」

 

彼の声は低く、感情を感じさせなかった。

それが、逆に私の胸に突き刺さる。

 

私は答えられなかった。

どちらも、嘘になる気がしたからだ。

 

ナギは、壁にもたれながら言った。

 

「もし、それが“日向”としての答えなら、俺は何も言わない」

 

私は目を閉じた。

シャワーの温度が急に冷たく感じた。

いや、きっと、心が冷えたのだ。

 

日向。

そう、私は、柊日向だったはずだ。

 

だが、今、私を満たしているこの感覚は――

誰のものなのか。

 

アカリ。

私のなかに宿った、もうひとりの存在。

彼女の歓びが、私の歓びと溶けあっている。

 

私たちは、もう分けられない。

そんな気がしていた。

 

「……でも」

 

私は唇を噛みながら言った。

 

「もし“アカリ”であることを受け入れたら……

何かが、戻ってこない気がするんだ」

 

ナギは、何も言わなかった。

ただ、静かに私を見ていた。

その視線は、責めてもいなかったし、励ましてもいなかった。

ただ、そこにあった。

 

私は、逃げたかった。

この問いから。

この痛みから。

 

だが、それすらも、快楽に変わりかけている自分が、怖かった。

 

――このままで、いいのか。

 

誰に問うわけでもなく、心のなかで呟く。

シャワーの音が、雨脚のように強くなった気がした。

 

私は目を開けた。

そこには、見慣れた少女の顔が映っていた。

濡れた長い髪。

細く白い指。

眠たげな瞳。

 

それは私だった。

そして、彼女だった。

 

もう、どちらでもなかった。

 

静かにシャワーを止めた。

音が消える。

世界から、ひとつ音が減った。

 

ナギは、背を向けた。

去り際に、低く呟いた。

 

「……お前、ほんと曇ってきたな」

 

私はその言葉を、否定することも、肯定することもできなかった。

 

ただ、曇った鏡のなかで、微かに笑った。

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