血よりも深く ―地方都市“黒神ヶ淵”異譚―   作:くにゅたろ

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第8章:曇る目、交わらぬ声
第8章 第1話:ナギの拒絶


 

「ねえ、ナギ。……君は、今の僕を、どう見ている?」

 

答えはなかった。沈黙という名前の拒絶が、対話の場を支配していた。テーブルの上に置かれたグラスの中で、氷がひとつ、音を立てて沈んだ。その微細な揺れすらも、僕には痛かった。

 

彼は目を伏せたまま、口元だけを動かした。

 

「君は……アカリじゃないんだろ?」

 

声は低く、しかしはっきりと輪郭を持っていた。言葉が持つ重さを、初めて理解した気がした。呼吸が浅くなる。喉の奥で何かが引っかかったように、うまく言葉が出てこない。

 

「違う、って……言い切れる自信は、もうない。でも……」

 

僕の声が震えるのは、寒さのせいではなかった。ここには冷房も暖房もない。ただ、感情という名の寒気が、僕の中に吹き込んでいる。

 

「僕は、確かに彼女と……アカリと、何かを分け合ってる。感情とか、記憶とか、もっと曖昧で、形のないものまで。だから――」

 

ナギは手を上げて僕の言葉を制した。彼の目が、静かに、しかし突き刺すように僕を見た。

 

「俺は、“アカリ”を信じてた。……でも、君は“彼女”を騙ってるようにしか見えない」

 

その一言で、僕の中にあった何かが音を立てて崩れた。否定ではない。怒りでもない。ただ、痛みだけがあった。ナギの声は、誰よりも僕を深く知っていた。だからこそ、彼の言葉は鋭かった。

 

「でも……君がそう見えるのも、わかる。だって、僕も自分で自分がよくわからなくなる」

 

情けない声だった。泣き声のような、それでも涙ひとつ流れない、空洞のような言葉。

 

「“僕”って誰だと思う? 日向? アカリ? どちらでもなくて、どちらでもあるような……そんな中途半端な存在を、君は……」

 

「――それでも、君は君でいられるのか?」

 

ナギの言葉は、その問いだけを残して、背を向けた。

 

その背中に向かって何かを叫ぶこともできた。けれど、声は出なかった。出したところで、何も変わらないと、どこかで理解していた。いや、変わってしまうのが怖かったのかもしれない。

 

ドアが閉まる音がした。それは日常の中に溶けるほどに自然で、残酷だった。

 

僕はひとりになった。

 

音のない部屋の中で、自分の呼吸音だけがやけに大きく感じられた。あまりにも長い時間、誰かと“共有していた”感情が、今はただ、皮膚の内側で暴れていた。心臓の音が、うるさい。

 

「……ナギ」

 

声にしてみると、それはあまりにも軽くて、無力だった。

 

なぜこんなにも苦しいのか。その理由は、明確だった。僕は、ナギに認められたかった。アカリとして、ではなく、日向としてでもなく、その中間にある“僕”として。けれど、彼はその曖昧さを許してはくれなかった。

 

「だったら、俺は“アカリ”を殺さなきゃいけないのか……?」

 

思考が、過激な方向に滑っていく。いや、過激ではない。正確だ。ナギの中にある“純粋なアカリ”の像を壊すには、僕が存在してはいけないということ。彼の正義の中に、今の僕は、どこにも居場所がない。

 

わかってる。そんなことは、ずっと前から。

 

でも、それでも、消えたくなかった。ただ、理解して欲しかった。それだけだった。

 

“誰かの形をした僕”ではなく、“僕という形の中にある誰か”を――。

 

部屋の隅に置かれた鏡の前に立った。そこに映る自分の顔は、どこか空っぽだった。かつて“日向”だった顔に、“アカリ”の記憶が宿る。それは僕にとって、救いであり、呪いでもある。

 

「これが、俺の顔……なのか」

 

僕は問い続ける。答えの出ない問いを、何度も、何度でも。そうすることでしか、今の僕を保てないのだ。

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