血よりも深く ―地方都市“黒神ヶ淵”異譚―   作:くにゅたろ

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第8章 第2話:沙夜の苦悩

 

 薄曇りの朝だった。春のはずなのに、肌を刺すような空気が、まだ地面の奥に冬を引きずっていると告げていた。訓練場の片隅に立つ沙夜は、ぬかるんだ土の匂いと、乾きかけた鉄の香りを鼻の奥で分離させながら、ゆっくりと息を吐いた。

 

 日向は、その向かい側に立っていた。片足を少し引き、右手を軽く開いたまま肩の高さで保っている。構えは整っている。整ってはいるのに、何かが、どこかが、少しずつ狂っていた。

 

「お前……なんで笑ってる?」

 

 問いかけは自然に口をついて出た。日向の口元には、確かにうっすらと笑みが浮かんでいた。それは冷笑でも嘲笑でもない。ただ、心の底から――あるいは、心の底など通り越した奥底から、湧き上がってきた快楽に対する純粋な反応のように見えた。

 

「笑ってる……?ああ……そう、かもな」

 

 日向は、かすかに頷いた。指先が震えている。高揚ではなく、陶酔だった。それは戦いに生きる者の感覚というより、むしろ戦いに“溺れる”者のものだった。

 

「お前の動き、変わったよ。……悪い意味で」

 

 沙夜は一歩踏み出し、木刀の柄を握り直す。日向の姿に、昔の誰かが重なって見えた。自分がかつて手を伸ばし、そして届かなかった背中。その背は、今こうして目の前にあるというのに、まるで別の存在になってしまっていた。

 

「お前、戦ってるんじゃない。踊ってるだけだよ」

 

 日向は反論しなかった。ただ、微笑みを絶やさぬまま、次の一撃に備えるように姿勢を低くした。

 

「昔さ、あたしの仲間にいたんだ。……戦いに酔って、自分が何のために刃を振るってるか、分からなくなった奴が」

 

 声が揺れた。沙夜はその記憶を、自分でも予想しないほど鮮明に思い出していた。血の匂い、壊れた呼吸、砕けた骨。そのすべてが、かつて自分の隣で笑っていた者の中にあった。

 

「そいつはな……ある日、仲間を斬った。獲物と見分けがつかなくなってたんだよ。自分が何者かも、何を守りたかったのかも、全部、戦いの快感に溶かしちまった」

 

 日向がわずかに目を伏せる。沙夜はその様子に苛立ちと哀しみを覚えた。

 

「お前も、そうなる。いや、もう、なりかけてる」

 

「……でも、俺は、守るために……」

 

「嘘だ」

 

 その一言が、空気を裂いた。言葉にしてはいけないとわかっていた。だが、言わなければ、届かないとも知っていた。

 

「お前は今、“生き延びるため”でも“誰かを守るため”でもなく、“感じたい”だけだ。……痛みも、快楽も、全部。そうだろ?」

 

 沈黙が降りた。日向の目が、かすかに揺れる。けれど、その揺れを抱きしめる腕を、沙夜は持っていなかった。いや、持つ資格があると思っていなかった。

 

「……怖いんだよ」

 

 沙夜の声は、自分でも驚くほど小さかった。

 

「また誰かを“置いていく”のが」

 

 風が吹いた。訓練場の枯れ草が揺れた。誰も、言葉を継がなかった。二人の間に流れる沈黙だけが、時間を引き伸ばしていた。

 

 その静寂の中、沙夜はふと思った。自分は、今、何を守ろうとしているのだろう?日向か?アカリか?それとも……かつて失った“誰か”の幻影か?

 

 ――もう、分からない。

 

 でも、ひとつだけ、確かに言えることがあった。

 

「お前のこと、置いてきたくないんだよ……」

 

 それは祈りだった。願いだった。届かないと知りながらも、手を伸ばすための言葉だった。

 

 日向は何も言わなかった。ただ、しばらくのあいだ、沙夜の目を見ていた。そこに怒りはなく、哀しみもなく、ただ、沈んだ水面のような透明さがあった。

 

 そして、日向は静かに目を逸らした。

 

「“アカリ”のままじゃ、お前は壊れるぞ」

 

 その言葉だけが、冷たい空気の中に残された。

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