ほんの些細なことだった。
最初は、声をかけられただけだ。道端の八百屋の前、軽く微笑みかけられ、「アカリさんですよね?」と、年配の女性に尋ねられた。
違う、とは言えなかった。
正しくは、言わなかった。
「……はい」
その一言が、自分の中の何かを決定的に動かしてしまった気がした。
認めてしまったのだ。
それが“嘘”だと知りながら、肯定した。
否定しないことが、こんなにも甘美だなんて思わなかった。
――そうか、俺は。
アカリとして見られることに、安堵している。
それが自分にとっての救いになっている。
それは、恐ろしい発見だった。
**
午後の陽光は、夏を予告するように白く乾いていた。
空気は澄んでいるのに、胸の奥は濁っている。
この体は、アカリのものだ。
そうである以上、誰かにアカリと呼ばれても、それを否定する材料は少ない。
少なくとも、見た目だけなら完璧に“アカリ”だった。
だが、日向としての俺は、たしかにここにいる。
記憶も、過去も、感情も。
それらは、消えてなどいない。
……ただ、混ざってしまった。
もう、境界が見えない。
**
「ありがとう、アカリさん。また来てね」
商店街の小さなパン屋で、袋を渡されたとき、あの言葉が胸に刺さった。
店主の目は優しかった。アカリを知っている目だった。
俺がアカリであることに、なんの疑問も持たずに接してくれるその距離が、
怖いほどに心地よかった。
自分を疑われないという快楽。
存在を問われないという赦し。
「俺は……嘘をついた」
帰り道、紙袋の温もりが指先から伝わってくる。
それは、嘘に対する罰のようで、
同時に、存在を抱きしめられたような感触でもあった。
「でも、それが“楽”だった」
**
沙夜やナギの前では、日向としての自分を維持しようとする。
いや、そう“装って”いる。
それはもう、演技に近かった。
でも、町の人々の前では、自然とアカリとして振る舞ってしまう。
口調も、笑い方も、表情さえも。
気づけば、肩の力が抜け、喉の奥が柔らかくなっていた。
それが、“楽”なのだ。
何も問われない。
何も責められない。
過去を語る必要もない。
**
「俺は、どうしたいんだ……?」
夜、自室の窓辺に座って、そんな問いを何度も繰り返した。
なぜ、否定しなかった?
なぜ、嘘をついた?
なぜ、それを“赦し”だと感じた?
考えても、答えは出なかった。
ただひとつ、確かなことがある。
――“アカリ”として過ごす時間の方が、
“日向”でいるよりも、ずっと生きやすかった。
**
それでも、その“生きやすさ”は、
自分を見失っていく感覚と、背中合わせだった。
ほんの小さな嘘。
だが、それは連鎖し、拡がっていく。
「アカリさん、また来週も来てね」
笑顔の中に沈んでいく自分。
光の中で影になっていく、日向という名前。
――このまま、嘘のまま、“彼女”になってもいい気がする……。
自分の中のどこかが、そう囁いた。
それを否定する声は、もう届かない場所にいた。