血よりも深く ―地方都市“黒神ヶ淵”異譚―   作:くにゅたろ

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第8章 第3話:“アカリ”としての嘘

 

ほんの些細なことだった。

最初は、声をかけられただけだ。道端の八百屋の前、軽く微笑みかけられ、「アカリさんですよね?」と、年配の女性に尋ねられた。

 

違う、とは言えなかった。

正しくは、言わなかった。

 

「……はい」

 

その一言が、自分の中の何かを決定的に動かしてしまった気がした。

 

認めてしまったのだ。

それが“嘘”だと知りながら、肯定した。

否定しないことが、こんなにも甘美だなんて思わなかった。

 

――そうか、俺は。

 

アカリとして見られることに、安堵している。

それが自分にとっての救いになっている。

 

それは、恐ろしい発見だった。

 

**

 

午後の陽光は、夏を予告するように白く乾いていた。

空気は澄んでいるのに、胸の奥は濁っている。

 

この体は、アカリのものだ。

そうである以上、誰かにアカリと呼ばれても、それを否定する材料は少ない。

少なくとも、見た目だけなら完璧に“アカリ”だった。

 

だが、日向としての俺は、たしかにここにいる。

記憶も、過去も、感情も。

それらは、消えてなどいない。

 

……ただ、混ざってしまった。

 

もう、境界が見えない。

 

**

 

「ありがとう、アカリさん。また来てね」

 

商店街の小さなパン屋で、袋を渡されたとき、あの言葉が胸に刺さった。

店主の目は優しかった。アカリを知っている目だった。

 

俺がアカリであることに、なんの疑問も持たずに接してくれるその距離が、

怖いほどに心地よかった。

 

自分を疑われないという快楽。

存在を問われないという赦し。

 

「俺は……嘘をついた」

 

帰り道、紙袋の温もりが指先から伝わってくる。

それは、嘘に対する罰のようで、

同時に、存在を抱きしめられたような感触でもあった。

 

「でも、それが“楽”だった」

 

**

 

沙夜やナギの前では、日向としての自分を維持しようとする。

いや、そう“装って”いる。

それはもう、演技に近かった。

 

でも、町の人々の前では、自然とアカリとして振る舞ってしまう。

口調も、笑い方も、表情さえも。

気づけば、肩の力が抜け、喉の奥が柔らかくなっていた。

 

それが、“楽”なのだ。

 

何も問われない。

何も責められない。

過去を語る必要もない。

 

**

 

「俺は、どうしたいんだ……?」

 

夜、自室の窓辺に座って、そんな問いを何度も繰り返した。

 

なぜ、否定しなかった?

なぜ、嘘をついた?

なぜ、それを“赦し”だと感じた?

 

考えても、答えは出なかった。

ただひとつ、確かなことがある。

 

――“アカリ”として過ごす時間の方が、

“日向”でいるよりも、ずっと生きやすかった。

 

**

 

それでも、その“生きやすさ”は、

自分を見失っていく感覚と、背中合わせだった。

 

ほんの小さな嘘。

だが、それは連鎖し、拡がっていく。

 

「アカリさん、また来週も来てね」

 

笑顔の中に沈んでいく自分。

光の中で影になっていく、日向という名前。

 

――このまま、嘘のまま、“彼女”になってもいい気がする……。

 

自分の中のどこかが、そう囁いた。

それを否定する声は、もう届かない場所にいた。

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