ナギは、雨上がりの匂いが残る空気の中に立っていた。背後の林が、微かにざわついている。昼の太陽は雲に遮られて、光を散らすように鈍く、灰色の世界にわずかな輪郭を与えていた。
その輪郭のひとつが、沙夜だった。
彼女は、ナギのすぐ右側に立っていたが、顔は見ない。見られてもいない。まるで、会話だけを交わすために選ばれたふたりの影法師のようだった。
「……気づいてるんでしょ、アイツの変化に」
沈黙を壊したのは、沙夜だった。声は、意図的に落ち着いた調子を装っていたが、端々に焦燥がにじんでいた。感情を濁さないように選ばれた言葉たちは、選ばれたがゆえに鈍く響いた。
「もちろんだ。気づかない方が、どうかしてる」
ナギの声には、無関心と怒りが同居していた。冷たいというよりも、氷点下をすでに通り越していた。
「それでも、あたしは――」沙夜は、言葉を一度切った。「……“アカリ”のままで、いいと思ってる。今の彼が本物だよ」
その一言に、ナギは目を細めた。まるで、ひとつの誤算がすべてを崩す方程式のようだった。数式は理屈で割り切れるが、人の心はその誤差を許さない。
「本物? なにが?」
ナギの言葉に、沙夜は微かに息を呑んだ。だが、すぐに微笑のような、いや、微笑を模倣した口元のゆるみを浮かべた。
「もう、あたしたちは“日向”を取り戻すことなんて、できないのよ。あの事故の後……あたし、見てたの。“日向”が、“アカリ”として目覚めるまでの間に、何が起きたか」
「それは……」ナギは、一歩だけ沙夜に近づいた。「なら、君は“日向”の死を、受け入れるのか?」
「違う」沙夜の声は、今度こそ怒りを孕んでいた。「死んでなんかいない。あの中に“日向”もいる。“アカリ”もいる。それが、いまの彼なの」
「それは、死者に対する冒涜だ」
ナギの声は低く、けれどもはっきりと響いた。弔いの鐘のように。
沙夜は、その言葉の重さを一瞬受け止めきれなかったようで、口をわずかに開いたまま、呼吸すら忘れていた。
その隙間に、時間がすり抜けた。ふたりの間にあった“理解しようとする意志”が、そこで霧散していった。
「だったら、どうすればいいって言うの?」
「君が、“アイツ”を止めろよ」
投げ捨てるようなナギの言葉に、沙夜は肩をすくめた。笑ったのかもしれないし、泣きそうになったのかもしれない。そのどちらも見せずに、彼女は背を向けた。
声は、すれ違った。けれども、感情の裂け目は、それよりも前に走っていた。誰かが声を発するずっと前から、すれ違いは始まっていたのだ。
*
沙夜は、帰り道の交差点で信号を無視して渡った。誰もいない、赤く濡れたアスファルトの上を。雨は止んでいたが、雲は分厚いままで、どこかに取り残された夕方の空気が、彼女の髪を重くしていた。
“止めろ”と言われたとき、彼女の心はたしかに揺れた。しかしその揺れは、迷いではなかった。もっと根深いところ――自分自身のなかの矛盾に触れたときの、不快な振動だった。
アカリの嘘は、きっと本人がいちばん知っている。その痛みも、沙夜にはわかる気がした。自分自身もまた、たくさんの嘘を抱えて、今ここに立っているのだから。
“あたしが……止めなきゃいけないんだ。”
その言葉は、頭のなかで反響しながら、いつの間にか胸の内側に沈んでいた。
風が、ひとすじ吹き抜ける。沙夜のスカートの裾が、それに応えて揺れた。