言葉を交わさないことが、誤解を減らすとは限らない。むしろ、沈黙が曇らせるのは、他者の想像によって塗りつぶされた自己の輪郭である。僕――いや、今はアカリと呼ぶべきかもしれない――は、それを知っていた。だから黙って、再び黒神ノ穴へと足を向けた。
誰にも言わなかった。沙夜にも、ナギにも。伝えれば止められるとわかっていたし、それ以前に、説明しようとすれば自分が揺らいでしまうと思った。言葉は、僕を裏切る。名前すら信用できないこの体で、何が真実だと言えるのだろう。
夜明け前の空は、沈んだ鉄のような色をしていた。重く、鋭く、冷たい風が皮膚をなぞっていく。山裾の湿った空気に包まれながら、僕は無言で地中へと降りていった。
かつての僕が、ここで何を見たのか。何を選び、何を手放したのか。それを、確かめる必要があった。いや、違う。正確には、確かめたふりをしたかっただけかもしれない。過去を見つければ、いまの僕を説明できる気がした。そう思いたかった。
扉は、音もなく開いた。
金属の軋みも、湿った石の匂いも、すべてが記憶の奥から浮かび上がるようだった。靴音だけが、微かな反響を返してくる。足元の水たまりは、かつて誰かが流した血の涙のように、僕の存在を映し返す。
「戻ってきたんだね」
声がした。けれど、誰もいない。僕は立ち止まり、耳を澄ました。いや、それは耳で聞くものではなかった。鼓膜ではなく、皮膚の内側で響いているような感覚。音と記憶の境界が曖昧になっていく。
少女の声だった。かつての僕、アカリ。あるいは、この名を借りた“誰か”。その声が、遠くから手招きする。
「ここが、始まりだったよね。全部、あのときから」
その声に、怒りや憎しみはなかった。ただ、懐かしさと哀しみのようなものが滲んでいた。それは、今の僕に似ていた。いや、きっと同じだったのだ。自分が、自分を語るときの声音。それは、他人の口からでは決して出てこない種類の感情だった。
どれくらい歩いたのか、わからない。時間の感覚は、こうした場所では当てにならない。時計の針よりも、脈拍と呼吸が頼りになる。いや、もしかすると、それすら幻かもしれない。
やがて、扉にたどり着いた。あのとき、開けることをためらった扉。記憶の中では、重く、固く、閉ざされた象徴だった。しかし今回は、なぜか軽々と開いた。まるで、僕が来ることを予期していたように。
「おかえり。――私」
視界が歪んだ。空気が揺れる。まるで夢の中のようだった。僕は確かに立っていたはずなのに、周囲の風景が波打ち、色彩が滲み、現実との境界が融けていく。
部屋の中央に立っていたのは、僕だった。かつての姿をした、僕。少女の形をしたアカリ。彼女は笑っていた。けれど、それは幸福の笑みではなかった。思い出を踏みしめるような、後戻りのできない悲しみの笑み。
「あなたは、何も変わっていないね」
アカリは言った。いや、僕が僕に言ったのだ。どちらが本体で、どちらが残像か、それはわからない。重要なのは、それを“聞いた”ことだった。
人は、何度も同じ場所に戻る。記憶の中でも、現実の中でも。けれど、それは同じ場所ではない。自分が変われば、景色も変わる。そうでなければ、成長とは何だろう。
「――あのとき、わたしは人を殺した」
その声が、決定的だった。扉を閉める音すら聞こえなかった。ただ、その言葉だけが、空気に染みこむように消えていった。
静寂の中で、僕はただ立ち尽くしていた。目を開けたまま、夢を見ていた。