過去を追体験することは、記憶の中を歩くこととは違う。
それは、風景ではなく、感情に触れる行為だった。
風は吹かない。匂いも、味もしない。だが、痛みだけが確かにあった。
アカリとしての記憶は、映像ではない。むしろ、染み込んだ音のようだった。
黒神ノ穴の奥で、血が跳ねる音。濡れた岩肌を叩く足音。叫び、そして……静寂。
それらは、過去形ではなかった。今もそこにある“現在進行中の罪”だった。
そのときの僕――アカリは、誰かを守ろうとしていた。
けれど、それは理屈にすぎなかった。行動はもっと単純で、原始的で、衝動的だった。
喉を裂き、胸を穿ち、腹を蹴って倒し、何も言わずに歩き去る。
何も知らない少女の顔をした“兵器”が、命令もなく人間を駆除していた。
笑っていた気がする。目の奥では泣いていたのかもしれない。だが、手は止まらなかった。
“彼”を守るため。“わたし”を守るため。――それは同じことだった。
「アカリ、それは……正義じゃない」
昔のナギの声が、どこかで聞こえた気がした。
けれど、それを否定する力は、もう残っていなかった。
正義とは、他人が定義するものだ。そして、他人など、あの地下には存在しなかった。
だからこそ、やっとのことで“生きて戻った”とき、僕は“アカリ”を封印した。
日向という仮面を被ることで、他人の規範に適応した。それは、正しい選択だった。
けれど今、その仮面の裏から、彼女が再び囁く。
「でも、そうするしかなかったの」
この言葉には、弁解も悲劇性もなかった。
ただ、ひとつの事実。――誰かを殺した、という事実だけが、冷たく胸に落ちる。
記憶が終わったとき、僕は地面に膝をついていた。
指先が震えていた。心臓の鼓動が早すぎて、むしろ静かに感じた。
頭の中では、彼女の声と僕の声が交錯していた。どちらがどちらか、もうわからなかった。
「“アカリ”は、俺の中にいる……」
そう呟いたとき、口の動きがわずかに違和感を帯びた。
発音の癖が変わっている。口内の筋肉が、見慣れない軌跡を描いていた。
彼女は、身体の中にいるのではない。
僕という存在そのものに、戻ってきた。あるいは、初めから分離などしていなかったのかもしれない。
「でも……それを受け入れる覚悟は、まだ……ない」
それが、僕の本音だった。
そのとき、外から足音が響いた。ゆっくりと、慎重に。
ナギだった。懐中電灯を手に、入り口の奥から現れた。
彼は黙って僕を見下ろしていた。僕も、何も言わなかった。
静かな、けれど決定的な“裂け目”が、そこにあった。
「お前は、まだ“人間”でいたいのか?」
ナギの声は、問いではなく、宣告のようだった。