境界とは、常に曖昧だ。
陸と海の区別も、善と悪の線引きも、きっと誰かの都合にすぎない。
それでも、人は「自分」と「他人」を分けようとする。そうしなければ、苦しみが流れ込んでしまうからだ。
僕――日向は、まだそこにいた。
地面に座り込み、湿った空気の中で膝を抱えていた。黒神ノ穴の最奥、光も届かないその空間で、アカリの記憶と混ざり合ったまま、動けずにいた。
ナギの声が響いてから、ずいぶん時間が経った。けれど、彼はそれ以上何も言わなかった。僕も、口を開けなかった。いや、開けなかったのかもしれない。喉の奥で、言葉が固まっていた。うまく声にならなかった。
「“人間”でいたいのか?」
その問いは、まるで刃物のように鋭かった。外から刺してくるのではなく、自分の中から突き上げてくる刃。僕が問われていたのではない。
アカリが、ナギに見透かされていたのだ。
「……わからない」
やっと、そう答えた。
それは、真実だった。
何が正しいのか。何が赦されるのか。どれが僕の声で、どれが彼女の声なのか。曖昧さの中で、僕は曇っていた。
ナギは溜息をついた。それは、怒りでも失望でもない。ただの諦めの吐息のようだった。
「沙夜は、お前を探していた。必死になって。ずっと泣きそうな顔でな」
その言葉に、胸の奥が痛んだ。だが、それ以上に困惑した。
沙夜が、僕を?
それは日向として? それとも、アカリとして?
「……会えない」
「どうして?」
「俺は……俺はもう、ただの人間じゃない。いや、そもそも“俺”が誰なのかも……わからなくなってる」
ナギの目が細められた。
その視線は、敵意でも同情でもなかった。分析する目だった。
まるで、実験中の生物を見る研究者のように、感情を殺して、現象だけを観察している。
「やっぱり、戻ったんだな。アカリが」
言い方に刺があった。
アカリを憎んでいるのか。あるいは、彼女の存在そのものを、否定しているのか。
けれど僕は、それを否定しなかった。
否定すれば、それは彼女を殺すことになる。僕の中にいる、誰かを。
「彼女は……俺なんだ」
そう言った瞬間、ナギが顔を背けた。
彼は、僕を見るのがつらいのか、それとも、見る価値がないと思ったのか。
そのどちらでもなかったとしても、僕は勝手に傷ついていた。
「だったら、もう……お前とは話せない」
ナギの声が静かに響いた。抑揚もなく、ただ事実を述べるだけの音だった。
それが、拒絶の言葉だった。
「沙夜には、俺から伝える」
それきり、ナギは背を向けた。
歩き去っていくその姿は、あまりにもまっすぐで、だからこそ遠かった。
誰かとすれ違うとき、それは突然ではない。
いつからか、同じ方向を向いて歩いているつもりで、ほんの少しずつ、角度がずれていた。
そして、気づいたときには、もう遠く離れていて、声も届かなくなっている。
「ナギ……」
呼びかけたつもりだったが、声は喉の奥で消えた。
地下の静けさが、そのまま僕の心を表しているようだった。
気づけば、空気が冷えていた。
僕はひとりだった。
もともと、最初からずっと。
目を閉じた。
そこには、誰の姿もなかった。