血よりも深く ―地方都市“黒神ヶ淵”異譚―   作:くにゅたろ

47 / 63
第8章 第7話:拒絶の言葉

 

 境界とは、常に曖昧だ。

 陸と海の区別も、善と悪の線引きも、きっと誰かの都合にすぎない。

 それでも、人は「自分」と「他人」を分けようとする。そうしなければ、苦しみが流れ込んでしまうからだ。

 

 僕――日向は、まだそこにいた。

 地面に座り込み、湿った空気の中で膝を抱えていた。黒神ノ穴の最奥、光も届かないその空間で、アカリの記憶と混ざり合ったまま、動けずにいた。

 

 ナギの声が響いてから、ずいぶん時間が経った。けれど、彼はそれ以上何も言わなかった。僕も、口を開けなかった。いや、開けなかったのかもしれない。喉の奥で、言葉が固まっていた。うまく声にならなかった。

 

 「“人間”でいたいのか?」

 

 その問いは、まるで刃物のように鋭かった。外から刺してくるのではなく、自分の中から突き上げてくる刃。僕が問われていたのではない。

 アカリが、ナギに見透かされていたのだ。

 

 「……わからない」

 

 やっと、そう答えた。

 それは、真実だった。

 何が正しいのか。何が赦されるのか。どれが僕の声で、どれが彼女の声なのか。曖昧さの中で、僕は曇っていた。

 

 ナギは溜息をついた。それは、怒りでも失望でもない。ただの諦めの吐息のようだった。

 

 「沙夜は、お前を探していた。必死になって。ずっと泣きそうな顔でな」

 

 その言葉に、胸の奥が痛んだ。だが、それ以上に困惑した。

 沙夜が、僕を?

 それは日向として? それとも、アカリとして?

 

 「……会えない」

 

 「どうして?」

 

 「俺は……俺はもう、ただの人間じゃない。いや、そもそも“俺”が誰なのかも……わからなくなってる」

 

 ナギの目が細められた。

 その視線は、敵意でも同情でもなかった。分析する目だった。

 まるで、実験中の生物を見る研究者のように、感情を殺して、現象だけを観察している。

 

 「やっぱり、戻ったんだな。アカリが」

 

 言い方に刺があった。

 アカリを憎んでいるのか。あるいは、彼女の存在そのものを、否定しているのか。

 けれど僕は、それを否定しなかった。

 否定すれば、それは彼女を殺すことになる。僕の中にいる、誰かを。

 

 「彼女は……俺なんだ」

 

 そう言った瞬間、ナギが顔を背けた。

 彼は、僕を見るのがつらいのか、それとも、見る価値がないと思ったのか。

 そのどちらでもなかったとしても、僕は勝手に傷ついていた。

 

 「だったら、もう……お前とは話せない」

 

 ナギの声が静かに響いた。抑揚もなく、ただ事実を述べるだけの音だった。

 それが、拒絶の言葉だった。

 

 「沙夜には、俺から伝える」

 

 それきり、ナギは背を向けた。

 歩き去っていくその姿は、あまりにもまっすぐで、だからこそ遠かった。

 

 誰かとすれ違うとき、それは突然ではない。

 いつからか、同じ方向を向いて歩いているつもりで、ほんの少しずつ、角度がずれていた。

 そして、気づいたときには、もう遠く離れていて、声も届かなくなっている。

 

 「ナギ……」

 

 呼びかけたつもりだったが、声は喉の奥で消えた。

 地下の静けさが、そのまま僕の心を表しているようだった。

 

 気づけば、空気が冷えていた。

 僕はひとりだった。

 もともと、最初からずっと。

 

 目を閉じた。

 そこには、誰の姿もなかった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。