血よりも深く ―地方都市“黒神ヶ淵”異譚―   作:くにゅたろ

48 / 63
第9章:深淵の声
第9章 第1話:獣の目覚め


 

 自分という存在が、いかに不確かなものか――それを実感するには、言葉が通じない場所に行くのがいちばんいい。

 言語は思考を形づくる。だが、その言語が崩れはじめたとき、人間の輪郭もまた、簡単に崩れてしまう。

 

 黒神ノ穴の最深部は、まるで世界の裏側のようだった。

 空間に重力がなかった。足音が吸い込まれ、光が歪み、匂いすらも滞留しない。

 音、温度、感情。すべての感覚が意味を失い、ただ“在る”という事実だけが残された。

 

 日向――いや、アカリ。あるいは、そのどちらでもない“何か”として、僕はそこに立っていた。

 自分の手が、自分のものではないような錯覚。

 心臓の鼓動が、まるで他人の身体の中から伝わってくるような、奇妙な遠さ。

 

 ここには、名前が存在しなかった。

 呼びかけも、応答もなかった。ただ、巨大な“気配”だけがあった。

 

 言いようのない“何か”が、奥からこちらを見ている。

 

 目を閉じても、それは消えなかった。むしろ鮮明になった。

 形はない。だが、輪郭はあった。感触も、存在の重みも。

 それは、僕の内側と同じ素材でできていた。だからこそ、恐ろしかった。

 

 空間が、微かにうねった。

 壁ではなく、空気でもない“何か”が、言葉にならない振動で僕を揺さぶった。

 

「おまえは、誰だ?」

 

 その声は、鼓膜を使わなかった。思考の背後から染み出すような、観念の洪水だった。

 単語も、文法もなく、ただ“意味”だけが直に注がれてくる。

 

 僕は、答えられなかった。

 自分の名前が、喉に引っかかった。日向? アカリ? それとも、“俺”という呼び方そのものが誤りなのか。

 

「おまえは、誰でもない。誰かであろうとした、虚無だ」

 

 その言葉に、強い拒絶を覚えた。

 けれど、否定できなかった。

 どこかで納得している自分がいた。

 

 この場所は、僕の“核”に触れていた。

 意識の奥底。人格の堆積のさらに下層――記憶すら触れてこなかった、暗い井戸の底。

 

 その底から、“それ”は現れた。

 

 姿はなかった。だからこそ、輪郭だけが異様に明確だった。

 獣と呼ぶには、人間に近すぎる。

 人間と呼ぶには、本能に近すぎる。

 

「これが……“獣”……俺の、もうひとつの核……?」

 

 口に出した言葉は、誰にも聞かれなかった。けれど、響きは自分の中で繰り返された。

 

 “それ”は、僕ではなかった。けれど、確かに僕の内にいた。

 憎悪、衝動、暴力、快楽。そうしたものに分類できない“純粋な在り方”。

 

 それは、僕が封じてきたもの。

 アカリの中に存在し、日向という皮で覆ってきたもの。

 殺意の根源でも、罪の象徴でもない。

 もっと原始的な、“在ることそのもの”の象徴。

 

「おまえは、“融合”を選ぶのか?」

 

 再び、声が問うた。

 今度は、明確だった。

 選択を迫られていることが、はっきりとわかった。

 

 この“核”を受け入れれば、僕は壊れる。

 いや、“完成する”と言うべきなのかもしれない。

 だがそのとき、僕は“誰でもない”存在になる。個体としての輪郭が、消えてしまう。

 

 僕は立ち尽くした。

 恐怖が、脊髄の奥からこみ上げてきた。

 だが、不思議な魅力もあった。

 拒絶したいのに、惹かれてしまう。

 拒否した瞬間、自分が偽物になる気がした。

 

 “それ”は待っていた。

 僕の選択を、声もなく、まるで鏡のように映し返していた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。