血よりも深く ―地方都市“黒神ヶ淵”異譚―   作:くにゅたろ

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第5話:肉体の衝動

 

 渇きは、喉から始まったわけではなかった。

 正確に言えば、“喉”という限定された場所に収まるような感覚ではなかった。

 

 それは、内側の奥深く、意識と身体のあいだにある何か――名付けることのできない“欲望”の形状として、はじめて僕に触れてきた。

 胃でもなく、肺でもなく、血管の内側をかすめるようにして、疼く。それは、まるで忘れていた臓器が目を覚まし、「わたしはここにいる」と訴えかけてくるような種類の存在感だった。

 

 頭が重い。

 脳が、均等に重力を受け止められていない。バランスが崩れている。

 世界がわずかに傾いて見えるのは、目のせいではなく、内耳でもなく、たぶん、存在の根幹に関わる問題だった。

 

 喉の奥で、何かが“鳴る”。

 乾ききった井戸の底を、誰かが棒で引っかいたような音。

 それが、僕の中から聞こえてきたとしたら――僕は何なのだろうか。

 

 人間?

 たぶん、もう違う。

 では、“僕”は、いま、何をしている?

 

 

 

 気がついたとき、僕は走っていた。

 どこへ向かっているのかは、わからない。ただ、身体が勝手に選んだ道を、僕は“乗せられて”いた。

 無数の扉、冷たい床、腐りかけた金属の臭い。それらは背景にすぎない。焦点はただ一つ、前方にあった。

 

 ――動いた。

 小さな影が、足元を横切った。鼠だった。

 

 ほんの数秒の空白。

 それは、たぶん“自分”が、意識の座を明け渡した瞬間だった。

 

 次に気づいたとき、僕はしゃがみ込んでいて、

 手の中に、その鼠がいた。いや、いた、というより、捕まえていた。

 その口元は、血に濡れていた。いや――違う。血に“触れて”いたのは、僕だった。

 

 

 

 牙が、伸びていた。

 

 はっきりとわかった。

 自分の歯列の中で、明らかに異物として存在していた、鋭くとがった何か。

 それは、歯ではなかった。感覚があった。血の温度を読み取るように、震えていた。

 

 鼠の喉は裂けていた。赤いものが、喉から胸にかけて滲んでいた。

 僕の口内に、血の鉄臭さが広がる。ぬるく、生温く、獣のような匂い。

 

 「……なに……やってんだ、俺……」

 

 言葉にならなかった。音声にはなったが、意味をもっていなかった。

 それは、悲鳴でも問いかけでもなく、ただの“音”だった。

 

 

 

 けれど、次の瞬間、僕の身体は――笑った。

 

 なぜなら、

 それは“おいしかった”からだ。

 

 おぞましい事実だ。理性では理解している。

 しかし、その味覚は、舌や脳に由来するものではなかった。

 それは、“身体の奥”で感じる悦楽だった。

 

 まるで、空腹を満たすように。

 まるで、抱きしめられるように。

 まるで、帰る場所を見つけたように。

 

 

 

 快楽、という言葉がある。

 けれどそれは、誰が決めたのだろう?

 脳が感じる快と、身体が求める楽は、必ずしも一致しない。

 たとえば、マゾヒズムのように、痛みの中に安心を見出す人間もいる。

 たとえば、死にかけることで、生の手応えを得る者もいる。

 快楽とは、刺激の質ではなく、帰属の感覚なのかもしれない。

 

 ならば、僕が今この血に感じている“それ”は、

 ただの異常ではなく、帰属――つまり、“本能”の発露だ。

 

 

 

 ……僕は、血で生きている。

 

 この身体が、それを求めている。

 アカリの身体なのか、僕の身体なのか、もはやそれは問題ではなかった。

 この肉の組成、神経の反応、牙の震え――それらが、この生を成立させている。

 だったら、この生は、“人間”ではない。

 

 それでも、僕はここにいる。

 自我の拠点は、まだ崩れていない。

 ただ、その周囲が、ゆっくりと“染まって”いっている。

 

 指が震える。血が乾き始めていた。

 鼠の遺骸は、すでに意味を失っていた。

 

 

 

 「やっぱり……俺は……人間じゃないんだな……」

 

 誰に言ったのでもなく、言う必要すらなかった。

 けれど、口にすることで、少しだけ“重さ”が減った。

 自分の輪郭が、言葉によって確かめられた。

 

 そしてその輪郭が、変質していることも、また。

 

 

 

 まだ喉が、渇いていた。

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