渇きは、喉から始まったわけではなかった。
正確に言えば、“喉”という限定された場所に収まるような感覚ではなかった。
それは、内側の奥深く、意識と身体のあいだにある何か――名付けることのできない“欲望”の形状として、はじめて僕に触れてきた。
胃でもなく、肺でもなく、血管の内側をかすめるようにして、疼く。それは、まるで忘れていた臓器が目を覚まし、「わたしはここにいる」と訴えかけてくるような種類の存在感だった。
頭が重い。
脳が、均等に重力を受け止められていない。バランスが崩れている。
世界がわずかに傾いて見えるのは、目のせいではなく、内耳でもなく、たぶん、存在の根幹に関わる問題だった。
喉の奥で、何かが“鳴る”。
乾ききった井戸の底を、誰かが棒で引っかいたような音。
それが、僕の中から聞こえてきたとしたら――僕は何なのだろうか。
人間?
たぶん、もう違う。
では、“僕”は、いま、何をしている?
気がついたとき、僕は走っていた。
どこへ向かっているのかは、わからない。ただ、身体が勝手に選んだ道を、僕は“乗せられて”いた。
無数の扉、冷たい床、腐りかけた金属の臭い。それらは背景にすぎない。焦点はただ一つ、前方にあった。
――動いた。
小さな影が、足元を横切った。鼠だった。
ほんの数秒の空白。
それは、たぶん“自分”が、意識の座を明け渡した瞬間だった。
次に気づいたとき、僕はしゃがみ込んでいて、
手の中に、その鼠がいた。いや、いた、というより、捕まえていた。
その口元は、血に濡れていた。いや――違う。血に“触れて”いたのは、僕だった。
牙が、伸びていた。
はっきりとわかった。
自分の歯列の中で、明らかに異物として存在していた、鋭くとがった何か。
それは、歯ではなかった。感覚があった。血の温度を読み取るように、震えていた。
鼠の喉は裂けていた。赤いものが、喉から胸にかけて滲んでいた。
僕の口内に、血の鉄臭さが広がる。ぬるく、生温く、獣のような匂い。
「……なに……やってんだ、俺……」
言葉にならなかった。音声にはなったが、意味をもっていなかった。
それは、悲鳴でも問いかけでもなく、ただの“音”だった。
けれど、次の瞬間、僕の身体は――笑った。
なぜなら、
それは“おいしかった”からだ。
おぞましい事実だ。理性では理解している。
しかし、その味覚は、舌や脳に由来するものではなかった。
それは、“身体の奥”で感じる悦楽だった。
まるで、空腹を満たすように。
まるで、抱きしめられるように。
まるで、帰る場所を見つけたように。
快楽、という言葉がある。
けれどそれは、誰が決めたのだろう?
脳が感じる快と、身体が求める楽は、必ずしも一致しない。
たとえば、マゾヒズムのように、痛みの中に安心を見出す人間もいる。
たとえば、死にかけることで、生の手応えを得る者もいる。
快楽とは、刺激の質ではなく、帰属の感覚なのかもしれない。
ならば、僕が今この血に感じている“それ”は、
ただの異常ではなく、帰属――つまり、“本能”の発露だ。
……僕は、血で生きている。
この身体が、それを求めている。
アカリの身体なのか、僕の身体なのか、もはやそれは問題ではなかった。
この肉の組成、神経の反応、牙の震え――それらが、この生を成立させている。
だったら、この生は、“人間”ではない。
それでも、僕はここにいる。
自我の拠点は、まだ崩れていない。
ただ、その周囲が、ゆっくりと“染まって”いっている。
指が震える。血が乾き始めていた。
鼠の遺骸は、すでに意味を失っていた。
「やっぱり……俺は……人間じゃないんだな……」
誰に言ったのでもなく、言う必要すらなかった。
けれど、口にすることで、少しだけ“重さ”が減った。
自分の輪郭が、言葉によって確かめられた。
そしてその輪郭が、変質していることも、また。
まだ喉が、渇いていた。